オタクが親になったなら

ところで、われわれ大人が赤ちゃんを抱きしめるとき、それは赤ちゃんを愛していて、保護しているしるしだろうか。大人の方が赤ん坊にしがみついているのではないだろうか。不安で寂しいときの鎮静剤として赤ん坊を利用するということはないのだろうか。
イーフー・トゥアン 「愛と支配の博物誌―ペットの王宮・奇型の庭園」)

近頃では、結婚して子供をもうけてらっしゃるオタクも多いと聞きます。
オタ親」なんつう言葉まであるらしく、一瞬「オタクやってる人の親御さん」という意味かと思いましたが、「オタクでかつ子供がいる人」という意味のようです。
さて、そうしたオタ親の子育てには、大きく分けて3つの特徴があるそうな。


大きな特徴の一つには、「子供にアニメやマンガのキャラの名前をつけること」ですね。
例えばK-1角田信朗みたいに息子がケンシロウで娘がユリアとか。星矢くんとかは今の10代後半くらいに結構な数がいそうです。最近だと、東浩紀先生が娘にCLANNADの汐から一文字とって名をつけていました。
オリジナルな名前をつけたがる人もいますね。大概どこのエロゲーからとったのかというネーミングセンスですが…かつて僕が見た例では、「久遠(くおん)」ちゃんとかいう「特攻の拓」チックな名前を将来娘につけたいと熱く語る大学生のオタクがいました。いまのところ、実際つける機会はなさそうです。


ついで、「子供をイベントに連れていく」人。
これは特に都市部の人限定かもしれませんが、小さなものだと遊園地のヒーローショーから、大きなものだとコミケまで、マンガやアニメやゲーム関連の様々なイベントや施設に連れて行く傾向にあるようです。
遊園地のイベントでは子供をダシにして行くというパターンも多いようですが、対象年齢が高めなイベントの場合、自分の都合で子供を連れまわすこともままあるようです。
特にコミケに子供を連れて一般参加したり、幼児をサークルの売り子にしたりコスプレをさせたりする人は、安全や教育の観点から問題視する意見もあります


もう一つの特徴としては、イベントに連れてくのも含めて「子供にオタクの英才教育をすること」
自分の好きなマンガやアニメを他人に見せたがるのはオタクの常ですが、子供に対してはより体系だてた教育として作品を鑑賞させる人が多いとか。この辺の話はオタキングもしていますね

まず子供に与える作品。フツーの親なら、とにかくディズニーとなるところだが、オタクは違う。以下は全て現実にあった話だ。
 クレヨンしんちゃんの映画に3回も4回も子供を連れていく親。小さい頃から「トップをねらえ!」を何十回となく見せる親。3才の子供はセリフを丸暗記してしまった。ストーリーは半分もわかってないけど。
 「未来少年コナン」をもう通しで50回は見せられたという5才の子供もいる。全26話をだ。初めて見た時は、親といっしょに一気に見た。見終わったのは朝。徹夜明けでハイになった子供はもっと見たいと泣いたそうだ。
(岡田斗司夫 「オタクの迷い道 (文春文庫)」)

もちろん、全てのオタ親がこうするわけではないでしょうが、している人がいるというのも確かです。
しかしなんでこうした特徴が現われるのでしょうか。


まず名前から考えてみましょう。
経済学者のスティーヴン・レヴィット曰く、「親は誰でも、子供が将来どんな人になるかに大きな影響を与えていると信じたい」とか。その証拠の一つが、子供に名前をつけるときで、親は本人が意識せずとも、子どもの社会的成功が得られそうな名前を付けたがる傾向にあるんですと。
しかし子どもに「翼」と名づけたりするオタクの名前の付け方や、子どもに「天使」と名づけようとする人は、これにあてはまらないような気もします。
そこでまたレヴィットの本を見てみましょう。

……フライヤー(引用者注:黒人と白人の名前と環境の関連を調べた人)の考えでは、子供に超クロい名前をつけるのは、黒人の親が地域社会に送る連帯の意思表示だ。(略)黒人の子が微積分を勉強したりバレエを習ったりすると「シロい振る舞い」をしていると思われてしまうなら、赤ん坊をシャニースと名づける母親は単に「クロい振る舞い」をしているだけだとフライヤーは言うのだ。
(スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー 「ヤバい経済学」)

文化集団ごとに付ける名前が異なる傾向にある理由は、その集団の人たちが「自分はあんたらの仲間よ」というのをアピールするために子供に「それっぽい」名前をつけるのだ、という説ですね。オタクの名づけの特徴には、どっちかというとこちらの方がしっくり来ます。
つまり、オタ親が子供にアニメやゲームのキャラからとった名前をつけたりするのは、周囲のオタクやあるいは自分自身に対して「俺って子供にまでこんな名前つけちゃうくらいオタクなのよ」とか、「俺はこんだけこの作品やこのキャラに入れ込んでるんだよ」とアピールする意味が(本人は意識せずとも)あるのではないか、っつうことですね。
では、なぜ多くのキャラの名前から、その名前を選んだのでしょうか。
オリジナルの「オタクっぽい」名前をつけようとする人に注目してみましょう。そうすると、彼らはその名前を単独で考え出したのでなく、彼らの妄想のために考え出しているということが分かります。
例えば先ほどの「久遠」という名前を考えた彼の場合、「久遠」は彼の妄想物語の登場人物としてまずあって、そのイメージに合う名前として「久遠」と命名されているわけです。
つまりここで彼が「娘が出来たら久遠と名づけたい」と言ってるのは、単にネーミングセンスがアレというだけでなく、娘にその名前をつけることで自分の妄想のようになってくれることを期待しているわけですね。
社会的成功よりも自己幻想に沿うことを期待している現われといえます。
あいや、彼は実際に子供が出来たら性的虐待してやろうと考えているわけでは無いと思いますよ。ええ、多分。母萌えで母モノエロゲが好物の人でも、実の母親をファックしたいとは考えてないのと同じです。誤解なきよう。
ただ、なんとなく自分の妄想のキャラのような容姿・性格・人生に成って欲しいと思い、そういう名をつけようと考えているのでしょう。
アニメキャラから名前を引っ張ってくる場合も似たようなものです。別にファンタジー世界に行って活躍して欲しいとか考えてるアホは勿論居ないでしょうが、そのキャラのような容姿・性格になってほしいという願いが多少なりあるから、無数のキャラの中からその名前を選んだのでしょう。


つまり、ある種のオタ親が「オタクっぽい」名前をつける(つけたがる)理由は、一つには「自分のオタクらしさのアピール」であり、もうひとつは「妄想の実現を期待している」からなのです。


他の二つの特徴についても、ある部分では同じことが言えるかも知れません。


子どもをイベントに連れて行く理由の大きな割合を占めるのは、もちろん子ども自身が見に行きたいからだと思います。
子どもが見に行きたくもないウルトラマンショーにムリヤリ連れて行くオタ親も中にはいるかもしれませんが、大概は子どもが見に行きたがってるから行くわけで、その上で自分も見に行きたいし、という風になるのでしょう。
しかし、子ども自身が幼いのに対象年齢が高めのイベント、それこそ例えばコミケとかに連れて行くのは、基本的に親の都合です。
ただ、その「都合」は単に同人誌が買いたいから、というだけでなく「子どもと一緒に回るコミケ」というものに憧れを持っていたり、「自分の娘はコミケに来るくらいオタクで、自分はそんな娘に育て上げるくらいオタク」ということをアピールしたいからかも知れません。
こちらのブログの記事は、「コミケ行ったらオタクのオナペットになるとかも考えずに子どもにコスプレさせてる親とカメコがいてソーバァーッド!」ということが書かれています。結構古いけど。

4〜5歳の双子らしき女の子もいたよ。プリキュアやってたよ。
そんな子供に寄ってたかってパシャパシャ写真を撮るカメコ集団。
しかも、撮り終わった後に「ありがとうございます」と敬語。
ていうか、普通なら撮影の了承はその子の親にするもんじゃないか?
それを本人たちにしかも敬語で断りを入れるってなんか異様だ。異様すぎる。
彼女らはなんで自分が撮られているのか理解できてるんだろうか?
かわいかったけど、これって微妙に幼児虐待ではないか?
(ともに< http://doku.poolhool.com/?eid=181918 > より)

上の話のような光景はたまに見かけますが、なぜこれらのオタ親たちは子どもにコスプレをさせたがるのかというと、それも上の話と同じなんですな。「ホラ見て!うちの娘が可愛いでしょ!」という単純な顕示欲だけでなく、コスプレした娘や息子*1が注目されることで、その親は他人と自分に「俺はこんな娘にもコスプレさせちゃうくらいオタクなんだよ!」と思わせているのです。
それが周り良く受け取られるかどうかは別として。
そうした親の原理について、進化心理学者のニコラス・ハンフリーはこう述べます。

親は、自らに宗教的あるいは社会的利益をもたらすために自分の子どもを利用してきたし、今もそうしている。自分たちの社会的、宗教的立場を維持するために、子どもに着飾らせ、教育を施し、洗礼をさせ、堅信礼やバルミツヴァ(ユダヤ教徒の成人式)に連れて行く。
(ニコラス・ハンフリー 「喪失と獲得―進化心理学から見た心と体」)

ということで、子どもに自薦DVDを見せたり様々なマンガを読ませたりするオタクの英才教育にしても同じです。
子どもに「こういうアニメを見せたい」と言うとき、子ども自身が楽しんでるからとか、子どもに良い作品をみて欲しいから、という想いだけでなく、「子どもにアニメを見せてる自分」というイメージを消費したいためにしている部分が全くないでしょうか。
また、自分の子どもが同年代のオタクっぽい子よりも遥かに濃いオタクになるのを見て、自分のオタクっぷりに快さを感じていないでしょうか。


ここで言ってきたのは一見すると「んなオタクぶりのアピールなんかしてどーすんの」という類の話ですが、「オタク」とか「アニメ」とかの部分を入れ替えれば、大体どの親にもあてはまる話になります。
例えば子どもに「亜菜瑠」とか名づける親も、亜菜瑠ちゃんはこういう子に育って欲しいという以外に、その文字列から連想する亜菜瑠ちゃんの姿を妄想していたり、同じように尖った名前の子どもを持つ友達と「やっぱりこれくらい名前にこだわらないと愛情がないよね」とか言い合って自分のDQN具合をアピールしあうことで、仲間としての結びつきを深めたりしていると聞きます。(←中段下くらい)
美術館でドタドタ走り回る子どもを連れてる親は、単純に「自分が行きたかったけど子どもを預けられないから連れてきた」とかでなく、「子どもと一緒に美術館を鑑賞する文化的な生活」とかに憧れてたり、「自分は子どもを美術館に連れてくるようなハイソな人たちの仲間だよ」とアピールしたいから連れてきたのかも知れません。
カルト宗教に入れ込んでる親は、ほぼ確実に自分の子どもにもその宗教の価値観を刷り込もうとしますが、それは親自身が言うような「子どものため」ではなく、まず純粋に自分のためです。

私たちが見ているものは、往々にして、純粋な私利私欲である。その場合、親あるいは他の責任ある大人の側の善意という罪を軽減する言い訳を許すことさえするべきではない。彼らは自分たち以外の誰のことも気づかってはいないのだ。
(ニコラス・ハンフリー 「喪失と獲得」)

ですので、今回の話は、別にオタクやオタ親をシメてやるという意味で書いてるのでなく、親全般にありがちな道徳的誤りについて述べているのです。


さて、たとえそもそもの目的が自分のためだとしても、結果的に子どものためになりうるなら許されることではないか、という意見もあるでしょう。ですが問題は、こうしたことが実際に子どものためにならないことにあります。


例えば「月(らいと)」と名づけられた事がその子のためになる可能性はほぼ無いですし、むしろ人生に悪影響を及ぼす可能性の方が高いです
名前がその子に期待するイメージを与えてくれるわけではないのと同じように、姓名判断みたいに名前で運命が変わるとかは勿論ありえません。しかし、その子の名前にいじりやすい要素…それこそアニメキャラの名前だったり…がある場合、つまりその名前の与えるイメージが周囲の人には良くない場合、周りの人もその子を馬鹿にした扱いをする傾向が生まれるでしょうし、そうした扱いを受けるとその子の自信も傷つくでしょう。そして、自信の有無は名前よりも人生を左右します。自分がその子に望んだものとは逆の結果をもたらしかねないのです。
イベントに連れまわすことについても、英才教育についても、大なり小なり似たような事が言えます。他人からの迷惑そうな視線や、友達と共有できないような話題ばかりを子どもに与えるのは、その子の心の傷になるかもしれません。

子どもたちは人と違うことを嫌い、それにはそれ相当の理由がある。奇異であることは仲間集団では徳とみなされない。子どもに一風変わった名前、くだらない名前をつけただけでも、子どもに不利を招きかねない。
(ジュディス・リッチ・ハリス 「子育ての大誤解」)

少なくとも、現在の世間一般でオタクが「キモくていじめても構わない存在」とされている以上、親としてはどれだけオタクの素晴らしさを知っていても、可能な限りオタクっぽくない風に子どもをしてあげるべきです。
主体性が確立してくる高校生とか大学生くらいの年頃の子どもに「オタクをキモイとか言う連中が悪い!2次元最高!」という「電波男」の理屈が通じても、小中学生くらいまでの、子どもの人格が決まるまでの段階では、出来るだけオタクらしさが出ないようにしてあげるのが親の務めではないでしょうか。


じゃあ子どもに自分の考えた名前を付けたり、どこかへ連れて行ったり、アニメをみせたりしちゃいけないのかというと、そうではありません。
子どもは自分と独立した利害がある存在だと認識して、その子の人間環境に悪影響を及ぼさないような程度で、名前を付けたり、一緒にアニメや漫画やゲームを楽しんだり、色々なところに連れていったり、服を着せたり、物事を教えたりするのは、親に許された特権で、誰も妨げることは出来ません。
ただ、その特権を行使するなかでも、何より子どもに配慮がなされなければいけないでしょうし、子どもを愛することで、その配慮自体もまた自分の喜びとなるのではないでしょうか。
このid:y05kさんのような方を見るに、そう思います。

「もし将来男の子が産まれたら”ガンバの冒険”は見せてあげたい」
「もちろん特撮はウルトラシリーズをマンからタロウまで総ざらい」
などといろいろ考えていたんだけど、いざ子供が産まれてみると、やはりそんな過去の遺産なんかより、現行のシリーズを見せてあげたほうがいいと思うようになった。世代とともにうつろう文化を背負って人は育つのであって、「そういえば子供の頃○○って見てた?」という会話に参加できないのは寂しいよね。< http://d.hatena.ne.jp/y05k/20060911/p1 >

そして、他のどういう人よりも、オタクにはそうした素質があるんじゃないかな、と思います。

人間同士の関係では、力は必ずしも濫用されるばかりとはかぎらない。たとえば親や教師を例にとるなら、彼らが子供を支配しようとつとめるのはたしかだが、それは子どもが成長して幸福になるようにと願うからだ。……どの場合にも力を行使する側から行使される側へと善意が流れる。流れた後には一時的に空っぽの場所が出来たような感じがする。だが、力を行使された人は与えられた力によって世界が広がり、新しい生命を手に入れる。
これこそは創造を意図する力の行使であり、私はこれに愛の名をさずけたい。
イーフー・トゥアン 「愛と支配の博物誌」)

*1:そういえば息子をコスプレさせてるのはあんまり見ないような気がする。偶々かも知れないけど。