若者の道徳意識は

今日はゲド戦記見てきました。素直な出来でよかった。(髭をなでつつ)
前評判のとおり吾郎監督のプライベートフィルムみたいな感じ…というか「実録・仁義無きスタジオジブリ」だったんですが、問題は誰がどのキャラなのかというのを当てはめることで…そっちの内容についてもおいおい書こうと思いますが、ひとまず今日は違う話がしたいんですよ。
というのもですね、映画館で隣の席に母親一人子二人の親子連れが座ったんですよ。それ自体はどうってこと無い話ですけど。ただこの親子が途中から入ってきた上にクチャクチャズルズル音立てながらポップコーンやらジュースやら飲み食い始めるんで「上映中の映画館で音をたてる奴が相手なら覇王翔吼拳を使わざるを得ない」と思ったのですが、ゲド戦記から発せられる心オナニー式アルファ波でうまいこと中和されました。


ということで、今日は木走日記さんで書かれていた「最近の若い子はモラルが崩壊していて、それは大人たちがダメになってるっつうことの現れなんじゃねえの!?」ということについての話。
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060802/1154514971
残念ながら両方の番組を見ていなかったので、実際はどういう内容だったかは分かりません。木走さんの日記やそこからリンクを張られているブログなどを読むかぎりは、NNNドキュメントは一部の学校で深刻な学級崩壊が発生している、という内容の番組で、クローズアップ現代は人々のモラル崩壊が起きている、ということを、図書館などの例を出していったようです。


既に様々な意見が出されているのですが、面白いのはコメント欄のtukasaさんが

tsukasa 『学級崩壊など、学校教育における子供たちの変化は、既に90年代初頭に別冊宝島『子供が変だ!!』が取り上げていました。現場の先生たちは、この本で既に家庭や共同体の解体によって躾が崩壊し、学校と教師がその皺寄せを受けていることを指摘しています。
同書を読んで、この世代が有権者となったら民主政は崩壊するのではないかと暗澹としたことが思い出されます。
十数年を経て、あの本に取り上げられた子供たちも二十代半ばから三十代になっています。この世代の価値観や傾向を見るのが、今後を占う手がかりになるかもしれません。
三十代以下の方々の見解をうかがいたいところですね。』

と言っている話です。
要するに学級崩壊するような資質を持った子どもというのは最近に限った話でもなくて、ずっと言われていることだから、今の子ども達が大きくなったらどうなるのかっていうのは今の若者みればわかるのでないかなと。


では実際のところ、そういった若い世代での道徳意識がどうなっているのか。
以前もお世話になった「検証・若者の変貌―失われた10年の後に」という本だと、「若者の道徳・規範意識は低下していない」と述べてあります。
青少年研究会調査の結果の表をもとに論が展開していくのですが、表というのが下のようなものになります。

この全体結果をみると、「若者の道徳・規範意識が低下している」というのはウソだといえる。彼らの大半は充分といってよいほど、社会を分かっているし、これらの道徳・規範に反抗・抵抗は考えていない。
(浜島幸司 検証・若者の変貌―失われた10年の後に)

調査対象となる16歳から29歳までの若者の、大多数の道徳意識は高い。しかし一方で意識の低い層というのもいる。ということで道徳・規範意識が高いグループと層でないグループに分けてみると、道徳や規範を守るべきだとする意識の高い「高規範群」と、道徳・規範意識が低いもしくは平均的なグループ「低+平均群」の人数比がほぼ半々ぐらいになります。あくまでも意識でしかない調査ですが、意識が行動に反映されるだろう、と捉え、一応この調査結果が行動に結びついていると考えます。
そこからさらに分類しますと、「低+平均群」に男性、10―20代前半の学生やアルバイトが多く、「高規範群」に女性、20代後半、給与所得者が多くなっています。が、どれも数%の違いで、それほど大きく偏ってはいません。
で、「高規範群」の若者達は、「低+平均群」と比べて、「真剣」「道徳」「親・世間」という言葉に過敏な反応をしめすそうです。また彼らは今後の自分のためになるようなことをしたいと望んでいる、つまり自己をしっかりもちたいという自意識が高い人間だそうです。

自己が強いのは、社会にとって困るようだ。しかし、自己をかなり意識しているのは「高規範群」の方である。対して「低+平均群」は自己への意識が低い。自己意識と社会意識は相反するものではなく、むしろ相関している。自己決定、自己中心がなされるのには、社会規範もある程度、内面化できていなければならないのだ。逆に、社会規範の内面化ができていなければ、自己決定、自己中心といったものも根付かないことになる。
(中略)
自己が確立できていないと、社会という大きな空気も読めないはずである。自己と社会との境目がわからないと、自分でも何を主張したらよいかわからなくなる。だから、この結果は当然ともいえる。現在の若者は、局面に応じて自分を使い分けることが出来るほどの高度な自己操作能力を持っている。彼らは自己だけの研鑽をしているわけではない。社会も理解している。社会を通じての自己決定が図られているのだ。
(浜島幸司 検証・若者の変貌―失われた10年の後に)

「若者のマナーが近年で特別悪くなったわけじゃないよ」っつうのはパオロ・マッツァリーノ先生も前々から仰ってますが、この本では特に「一部の道徳や規範に対する意識が高い子たちが、過度に大人の要求に応えようとしているんじゃないか」といってます。
またこうした道徳意識と結びつく行動は限定的で、髪を染めたりアニメを見たりというのとは関係がないとも言います。
面白いのは、こうした「高規範群」も、日本の将来などについては悲観した考えを持ち、個人の力ではどうがんばっても社会を変えることなどできないと考えている点ですかね。
なんにせよ、この本の内容を信じるなら、昔道徳意識が最悪の子ども達が育つだろうと言われていた層も成長してからは高い道徳意識をもつ人が多いのだから、今学級崩壊を起こしているような子ども達も、それほど道徳意識の低い大人にはならないだろう、ということです。


ただこの本の、特にこの章などについてはちょっと論として危ないかもねという話もあります。また調査対象地が東京都杉並区に神戸市灘区・東灘区と、ちょっと良いとこでしらべてんじゃないのという気もします。
前に紹介したジュディス・リッチ・ハリスの「子育ての大誤解」でも、「大切なのはその地域のコミュニティの環境」と言ってましたから、地域によってはこれと違う結果が出るかもしれません。
というか僕はどちらかというとその地域全体の人々の傾向の一つの表れとして、学級崩壊やマナーの崩壊であるとかが起こるのではないかと思います。

犯罪者を生みの親にもつ息子を犯罪者に育て上げたのは同じく犯罪者であった養父母ではなかったのだ。そうさせたのはその子を育てた地域だ。地域により犯罪の発生率は異なるが、デンマークの田舎で犯罪の発生率の高い地域を探すことは至難の業にちがいない。
(ジュディス・リッチ・ハリス 「子育ての大誤解」)

だから、一方では学級崩壊が起きて、一方では起きない、逆に道徳意識が極端に高まるということがあるのではないかなと。
何にせよ、学級崩壊やマナーの低下というのはあるかもしれませんが、若者の意識としては道徳的な意識が強い人たちも大勢いるので、一概に悲観しなくても大丈夫です。が、かといって楽観してても良いということでなく、大人は子どもたちの暮らす地域の健全さを保つ努力をする責任がありますよ、と。


何か書き忘れてるような気もしますが、このへんで。