ゲド戦記を読み解く!

さて、ゲド戦記でしたが、巷でボロクソ言われてるほど酷いもんでもないですね。
個人的に感じた面白さとしては、猫の恩返し>>ゲド>>山田くん てとこですかね。
いや、この比較自体が酷くないかという問題もありますが。いやでも僕的には猫の恩返しは面白いですよ。山田君はねえ…うん。
なんにせよ相変わらずジブリらしい気持ち悪いほどよく動くキャラとか、複線の投げっ放しぶりとか、いきなり心変わりする登場人物とか、解説屋ハイタカとか、登場人物にテーマを全て語らせるキャシャーン的演出も含めて、全体的に評価すれば、昨今のアニメとしては凡作、そこから人により上下するだろうなっつうところですね。
ジブリに対し深い期待を持ってたり、原作に思い入れのある読者の方だったりすれば、評価は下がるだろうと思います。
しかし…実は、冷静にゲド戦記という作品を読み解いていくと、吾朗監督が優れた感性と全体の状況を把握してもっとも適切な方向を把握できる名監督であるということがわかります。ということで以下、ゲド戦記のネタバレがこれでもかーこれでもかーと入ってくるので、まだ映画を観てない方はご注意ください。












ゲド戦記のあらすじ


で、このゲド戦記、前回もちょっとだけ述べたように、吾朗監督のプライベートフィルムというか、「実録・関東ジブリ戦争 修羅の杯」という内容でした。
しかしですね、もう少し突っ込んだ視点で見てみますと、そこには宮崎吾朗監督の熱い魂のメッセージがこめられていたのです!ド━(゚Д゚)━ ン !!
その話に行く前にまず、一回見たけどどういう話の筋だったか思い出せない人のために、あまり色眼鏡をかけずにあらすじをざっと説明します。

アレン、父親を刺殺して剣をパチって逃走。盗んだヤックルで走り出す 行く先もわからぬまま

野犬?に絡まれてたところをハイタカ(ゲド)に助けられる。

ハイタカと一緒に街へ行ったりする。色々説教されたり説教されたり説教されたりする

アレンはテルーが人攫いに襲われてるところを助けるが、アレンはその後袋叩きに合ってさらわれる。

ドナドナ。半裸のアレンがハイタカに救出される。婦女子向けサービスシーン。

テナーというハイタカの愛人の家にかくまわれる。たまたまこの家に住んでたテルー。

タコ部屋住まいで強制労働。テナーとハイタカから自然と労働の素晴らしさについて説教される。この辺ジブリっぽい。

アレンがテルーの歌にヤック・デカルチャー!と叫んで感激。

テルーの すごい ツンデレ
「命を大切にしないやつは」→「好きよ好きよキャプテン」

クモとかいうオカマがアレンをヤク漬けにして誘惑。クモはノンケだって食っちまう男なんだぜ。

テナーが拉致監禁されたり、テルーが緊縛放置プレイされたり、ハイタカとアレンがくんずほぐれつしてたら、ハイタカがクモにつかまって監禁されたり、なにかと性的。

エヴァ最終回近くのシンジくんみたいな状態のアレンをテルーが励ます。
テルー「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ!('A`)」
アレン「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ!('A`) 」
テルー「おめでとう('A`)」
竜「おめでとう('A`)」

一応、鬱も小康状態になったのでクモを殺しにいく。
アレンのピンチとかゲドの解説とか色々あってクモの腕チョンパ。

起死回生をはかり、テルーをさらってアームロックをかける肉体派・クモ。
テルー「クモ…君の手があたたかい」
そのときテルーは「イヤボーンの法則」を発動させ竜になりました。火を吹きました。クモ死にました。アレンおいてけぼり。

アレンとテルー、二人の別れの場面で感動のエンディング…のはずが、ちゃっかりテナー家に居座ってるアレン。なんにせよエンディング。

大体こんな感じなのですが、作品の端々や公開されている情報などなどから、「これはジブリの内部事情をモデルにしてます」とでも言いたげな感じがひしひしと伝わってくるのですね。


父親殺し?


…で、たぶんコレはどこでも言われていると思うのですが、まず主人公アレン=吾朗監督なんですね。で、父親で偉大な名君=宮崎駿を冒頭で刺し殺しちゃうんです。これが「ああ、吾朗監督は、宮崎駿を刺し殺したいんだなあ」という風に解釈できます。確かにこの王様、お供のヒゲジジイをつれており、これが鈴木Pという風に解釈すれば、シスの師弟のように連れそう宮崎監督と鈴Pと重ね合わせられて、納得もいきます。
まあこれだけなら「世界名作アニメ劇場 エディプス王ロリコン編・完」と言い切って良いと思うのですが、しかしですね、話はもうちょっと複雑だと思うのですよ。


あの老獪な鈴木Pが、そんな誰でも連想するような粗末な仕組みを見過ごすのか?
さすがにそれはありえないだろう、アレにGOサインをだしたというのは、何か裏があるのではないか?しかしあんなジブリ内乱を匂わせるようなものを出してなんのメリットがあるのか?というか、登場人物が重ねられているのはそこだけなのか?などといったことを考えていきますと、ある一つの結論にたどりついたのです。


ゲド戦記は、スタジオジブリから細田守への壮大なラブコールだ!ド━(゚Д゚)━ ン !!


細かくいうとちょっと違いますが。…細かく言わなくても全然ちげーだろと思うかもしれませんが、とりあえずそういうことなんですよ。

ゲドは誰だ


最初にパパ宮崎を殺した吾朗君が、ジブリ宮殿を後にして旅に出ますと、そこで物語における父親代わりの存在(ゲド)に出会うわけですね。で、このゲドがそもそもだれなのかという問題があります。
最初は「父親を殺すようシーンを入れるよう指示したのは鈴木Pだというから、鈴木Pはハイタカのポジションを狙ってるわけだな」とか思っていたのですが、そう単純でもないのです。というかそんだけだとありきたりでつまんないんで、もう少しでっち上げたいのです。
ゲドは鈴木Pであり宮崎駿そのものでもあるのです。
つまり宮崎駿ゲド戦記では一人二役やってるんですね。一番最初に殺される王様役と息子吾郎を導くゲド役。吾朗監督が父親に反発してジブリ宮殿を抜け出し、オオカミだらけの建築業界に入っていっても死に掛け、結局はチョイモテオヤジな格好して生まれ変わった駿監督にくっついてくのですね。
だから物語の間、ずーっとアレンはシンジ君みたいに鬱々としてるのですよ。折角オヤジが嫌いで逃げ出したのにまたオヤジと一緒に行動するんですもん。ミサトさんと一緒に暮らせると思ったら喋り捲るゲンドウと二人暮らしするハメになったシンジ君みたいなもんですよ。これでヒロインがいなけりゃ第三話でそのまま帰りますよ。
気がつくとエヴァの話になりかけてましたが、なんにせよゲドは、吾朗監督にとってジブリのトップで能書き垂れてる存在である駿・鈴木Pの投影なのですね。

吾朗アレンの旅


で、二人はたどり着いた海千山千の存在が集う「アニメのまち」に入り込むのですね。
しかし、その街では既に動画製作を韓国中国にアウトソーシングしてるために、粗末な出来のアニメしか作れないのです。ゲド駿はDVDショップに入りますが、あるのはヤシガニアニメばかり。漫画神さまの姿が透けて見えるのでカクカク動くアニメに並々ならぬ怨念を抱くゲド駿は「なぜこんなアニメをつくる。やっぱり手塚治虫が悪いんだ」と倍賞美津子に問いただしても、「ふん、どうせアンタだって千と千尋で韓国動画つかってんだろ!うちだって金があれば京都アニメーション使ってるよ!」と言われる始末。
また吾朗は「傷持ちトラウマ少女ハアハア」とかいってる萌えオタクの集団に出会います。ヘルメット被ってコスプレしてる人は「うさぎ」という名前で、どうもセーラームーンが好きという裏設定があるキャラのようです。
「萌えとかばっか言ってんじゃねえ!」とキレた吾朗はオタクを追い払いますが、夜中になると萌えオタ軍団が集団で吾朗を襲い、誘拐します。目が覚めるとそこは総武線の中で、秋葉原まで各停で行く車内には、恋のミクル伝説を聞かされ続け動物化したオタク奴隷だらけでした。
しかしそこに現れたゲド駿は、「耳をすませば」を見せ、リアリティのある青春ストライク映画によって萌えオタのトラウマを突き、吾朗は救出されます。その他の奴隷達については「アニメをみて引きこもる奴ばかりでなく、雫と聖司みたいな青春を送る奴もいる、という現実から逃避する彼らの枷も外しといた。ここから出るかどうかは自分次第だ」と切り捨てます。

吾朗、アニメ界へ


とまあ、大体こんな感じに解釈できる(ような気もする)展開が色々続いた後ですね、テナーの家に場面が移るのですが、このテナーというのが一体誰なのかというと、思うに彼女こそが、高畑監督なのであります。「半ば隠居」「魔法使いだけど(今では)魔力を殆ど持たない」「ゲドのふるい友人」というのは、まさに山田くんで大コケしていらい殆ど表舞台に顔を現さない高畑監督といえるでしょう。
ということは、テナーの家はカモフラージュを施したスタジオジブリサツキとメイの家風味)だったのです。オヤジを殺してアニメとか関係ない自由の身になったと思った吾朗監督は、結局パパ宮崎の家に気づかぬうちに帰ってきて就職させられていたのですね。
そこで吾朗監督はジブリ美術館の館長をさせられるのですが、そこには顔に傷のある少女・テルーがいました。
では、テルーとは誰か…これこそが肝心なのですが、テルーとは今までジブリを放逐された天才アニメーターや演出家たちの投影なのです。ですから、ゲド駿はテルーのなかに竜…つまりアニメの才能を見出すのですが、結局最後まで何の解説もせずに放っておくのです。
さて、ではこのテルーをここでは便宜上、細田テルー守とでも呼びましょう。
とにかく、宮崎・高畑・鈴木の下で修行をさせられる吾朗に、細田テルーはなかなか心を開きません。「アニメを大切にしない奴は大嫌いだ!」といわれます。確かに北朝鮮みたいな世襲制ジブリに導入された日には、今までジブリ華を咲かせそうになっては散っていった不世出の天才達も浮かばれません。
しかしあるとき、細田テルーの「おジャ魔女どれみ」演出回やデジモン映画版に感動し、感涙にむせぶ吾朗。なんだか自分の作品で泣かれてしまったので、仕方なしにパパ宮崎への愚痴を聞いてあげる細田テルー。吾朗は自分の作品と細田テルーとの格の違いに絶望し、「僕はここにいちゃいけないんだ。学芸員の資格もないし」と言って家出します。
しかしそこでは、世にも恐ろしい「サブカルの魔の手」が迫っていたのです。

クモは誰だ


そこで吾朗を誘拐して自分の城までつれて帰った謎の男クモ。子分のうさぎさんとの会話から、どうもゲド駿と少なからぬ因縁があるようです。
クモこそは、ハニーメーションだのというアニメだか実写だかよくわからん技法を用いることで、生死両界の扉ならぬアニメと実写を分かつ扉を開け、アニメ世界の均衡を破ろうとする実写転向組みのアニメ監督達、つまり押井守庵野秀明を示しているのです!残念ながら人形も犬もロボットもないので判りづらいのですが、上のように考えるならこれは間違いなく庵野・押井両者を投影しているのです。
押井クモにラブコールを浴びせられ「ほら、アニメ畑の連中が嫌になったら、実写を撮ってみようよ!そしてオヤジを殺そう、な!」と誘われる吾朗。その前に特製月見そばを無理やり立ち食いさせられたせいで頭が朦朧としていたので、結局オッケーしてしまいます。
押井&庵野クモは、どうも二人が実写映画撮ろうとしたときに宮崎監督にシメられたことがあって、それを根に持ってるそうなのですが、とりあえず作中では語られませんので、吾朗監督だけが知ってる秘密のようです。恐らく「なんで実写に行くんだよ!行っても良いけどなんでまた立ち食いそば喰ってるオッサンばっか撮るんだ!神木隆之介きゅんとかその他大勢の子役たちをなんでつかわないんだ!お前は実写行く前に、ローゼンメイデンみたいな萌える人形に入った素子タンを描け!グロイんだよ!」とか「ショートに!サトエリももっとショートカットに!シュガシュガルーンも嫁に言ってショコラたんの断髪式をするんだ!バニラたんは…いいじゃない?」という感じで個人の性癖を無理やり押し付けられたかなんかしたのでしょう。
そこでクモはそのはらいせに、息子の吾朗に擦り寄って「映画の出来は70点だね」「二作目が勝負だよ」と、伊丹監督が撮りそうな熟女萌えの死ぬほどドロドロした実写映画を撮らせることで、宮崎監督に怨念返しがしたかったのでしょう。それをして吾朗監督は

押井さんは、私に対して一方的な親近感をもってくれているらしく、
立喰師列伝』を、ぜひ観てほしいということでした。
「ゲド戦記」監督日誌

と言ったのでしょう。吾朗監督もツンデレらしく、「別に父を殺したいわけじゃない」と言ってますが、作品中のアレンをもって「あ〜「失楽園」みたいな映画も良いかも〜」と押井監督の誘いに傾きつつある、というところを見せました。
そこに「馬鹿野郎!アニメでファンタジーを与えなきゃいけないんだ!」と乗り込んできたゲド駿。クモに操られた吾朗を「別に実写をやれば文化人面して一生食っていけるわけじゃないぞ。世の中にはこちとら自腹じゃな奴もいるが」と諭すのですが、あと一歩というところで「てめえハウル全然わけわかんねえよ!」とブチ切れたオタクにつかまって宮崎・高畑・鈴木Pのジブリ三巨頭は全員牢屋に入れられてしまいます。
そしてクモは「フフフ、考えられる最も屈辱的な方法で殺してやろう」といいました。これはハウル」で宮崎監督があれほど嫌だといった「ババアに殺される」という方法で殺そうというものです。だからテナーに殺させようとしたんですね。本当は高畑監督なんですが。なるほど、ショートカットロリ教団(SL教団)教祖の宮崎駿とあろうものがロングのババアに殺されたとあっては、死んでも死に切れないでしょう。さすが吾朗監督、親子なだけはあります。

クライマックスと、この映画の真のテーマ


一方、細田テルーは「アニメ監督権」という中々抜けない魔剣を携え、アレン吾朗の心の影の部分…実はこれが吾朗の心の光の部分だそうなのですが、こいつに導かれクモの城までやってきました。
そして吾朗アレンに抱きつかれます。

アレン吾朗(影)「細田君……細田君に託す……!虫のいい話なんだが……オレの代わりに……このジブリ新作アニメ監督権限を渡してくれ……!……良いことなんかなんもなかった……吾朗……つまり俺……今も『なんだ世襲制かよ』って言われてアンチジブリに追われて……暮らしている……みんなオヤジのせいなんだ……武蔵野市……京王井の頭線井之頭公園駅の……」
細田テルー「おいっ…!何いってんだっ…知らねえよっ……!そんなことっ…!それこそ…あんたがどーにかすりゃいいことだろ…!ジブリを出るんだよっ…!そんな事情があるならなおさら…ジブリでて…客として愛・地球博にでも行きやがれっ…!あんたがっ…!あんたがっ…!あんたがっ…!あんたがっ…!」
アレン吾朗(影)「ダメだっ…オレはダメなんだ…細田君…わかったんだよ…オレにはもうわかった…アニメ監督には二種類いる…と。(ジブリの)土壇場で駄作を作ってネット&リアルで叩かれまくる監督と…そこで奮い立ち筒井康隆原作のアニメをつくって絶賛される監督と…オレは…そのダメなほう…ダメなんだ…どうしてもマイナスのイメージが拭えない…アニメを作ろうとしても…自分の叩かれる姿がちらついて…震えが止まらない…本当に…もう、こうして『宮崎吾朗第一回監督作品』と電通にキャッチコピー打たれるだけでギリギリ…精一杯なんだ…でも…細田くんは違う…細田くんは…できる監督…細田君は困難に相対した時、めげずに立ち向かえる監督…芯の強い監督だ…細田君ならできる…託せる…!」

ということでテルー細田はアレン吾朗のところまで言って「このままじゃ潰れることがわかっているからジブリが大切なんだ!吾朗が恐がっているのはアニメを作ることじゃない、ジブリを恐がっているのよ!建築家になるとか、、そんなのどっちでも同じだわ!一つしかないジブリで生きるのが恐いだけよ!」「ジブリは駿だけのもの?私はジブリに雇われた(放逐されたけど)。だからアニメをつくらなきゃいけない、つくって次の誰かにジブリを引きつぐんだわ。そうしてジブリはずっとつづいていくんだよ
ということで、なぜか細田タンに「ジブリの明日はお前の肩に掛かっているのだ」と説教されて目覚めた吾朗は、「そうだ、ジブリのためにも駿たちを救わなければ」と、クモを倒しにいきます。


スーパーライブメーションという魔法をつかってくるクモと対峙した吾朗。伝家の宝刀「ゲド戦記」を抜き、クモ押井をきりつけます。「やった!俺の作品で押井・庵野を越えたぞ!」と思ったのもつかの間、すぐに腕が再生してるあたり、実際は見た目ほど効いてないようです。
クモはなぜかテルー細田をつれて逃げます。つまり、才能のある若手を引き抜こうとしているということでしょうか。後進が育たないジブリサイドからみると、そういう風にみえるようです。
しかしオチャメなクモさん、「永遠の命が」とかブツブツ言いながらついついアームロックを決めすぎてテルーを殺してしまいました。これはあまりにも理屈っぽい作品ばっか作って吾朗監督好みのエンターテイメントではないから、押井や庵野にくっついてっても結局死ぬぞ!という吾朗監督のメッセージなのでしょうか。
いずれにせよ、折角吾朗監督がゲド戦記をつくったのにクソの役にも立ってないという展開が哀れすぎます。しかし、これもまた自分の力量を冷静に見極める吾朗監督の判断力が、無意識のうちにこうした展開にさせたのでしょう。
しかし、ここで唐突にテルー細田の中に眠っていた力が目覚め「時をかける少女」を公開したところ、あっという間にクモをやっつけてしまいました。
どうやらゲド駿の言っていた「希望が近づいてくる」というセリフは、吾朗監督でなく細田監督のことを言っていたようです。
時かけ」でアニメの才能を開花させ「竜」となった細田テルーにつかまって、アレン吾朗は一緒に大空を飛びます。まさか自分だけは空から落とされまいと思ったのでしょうか。
そして再び地面に降りてきたアレン吾朗とテルー細田。吾朗監督は「やっぱり俺はジブリ宮殿に帰るよ。そのときはまた会ってくれ」と言うのですが、気がつくとアレン吾朗もテルー細田も、ゲド駿やテナー高畑と一緒にスタジオジブリサツキとメイの家風味)で仲良くアニメを作っています。
何事かと思ったのですが、これは「吾朗監督にとってのあるべきスタジオジブリ像」だったのです!わかりますか?
つまり、この作品の真のテーマは、「ジブリがこの先生きのこるには」ってことだったのですよ!
結論としては、「俺も映画つくってみるけど、多分あんま役に立たないから、若手で才能ある人をジブリにいれよう」ってことなのですね。吾朗監督、慧眼です。
そこで細田監督に目をつけた吾朗監督。仕入れた「時をかける少女」の噂から、「こりゃ傑作になるぞ」と思い、「今のうちにハウルのときの仕打ちを謝っておこう」ということで、栄えあるヒロインに細田タンを抜擢し、ヤケドの傷や「虐待された過去」などの設定をハウルでの仕打ちと表現して
ハウルのときはゴメンネ!僕らのほうも色々あったけどさ、ジブリってホラ、こういうメンドクサイ人が多いジャン?鈴木Pとかみんなツンデレで素直に謝れない子ばっかりだから、映画を作って同時期に公開することでメッセージに代えるよ!ホントは駿父ちゃんが作って謝るのがスジかも知んないけど、さすがに父ちゃんも権威だからホイホイ作品つくれねーんだわ。だから僕が作ってみたよ、素人だけどね!みんな、ホントは凄い映画つくる細田監督と一緒に、ジブリでアニメつくりたいんだよ!まってるからね!」
ということを長々と語っているのです。いやー、長いわりにわかりにくいビデオレターでしたね。
多分観客が「つまんねー」と怒り狂ってるのは、私信をわざわざ一般人に見せてるからなんでしょうな。「そんなん直接本人に言えよ」と。
全くもってその通りなのですが、そこでアニメとしてしか表現できないのがジブリらしいですよね。
さ、皆さんも「ゲド戦記」の真の意味がお分かりになったでしょう。
ということで吾朗監督も「押井・庵野を超えた!」と作中で絶賛している「時をかける少女」をみんなで見ましょう。多分細田監督はジブリに帰ってはきませんが。


見えぬものこそ。
ゲド戦記