アンパンマンができるまで その3

余はここに
漫画集出版を
全ビール国民に対して
布告する
ビール国王


ボクはあこがれるなあ 王者の風格に
高貴純潔慈愛のまなざし ゆっくりと微笑して
心は四月の太陽のようにあたたかい
ああ王さま ボクも
あなたの国へ行き あふれる涙は正義のため
マンガかくのはお金のためじゃない
みんなをニッコリ笑わせる
あなたの政策に協力したいのです
(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)


1973年。それは、やなせ先生のターニング・ポイントの年でした。
詩集を出したサンリオ社がどんどんと大きくなり、やなせ先生の詩の本も順調に売れていました。
そこで社長に詩の雑誌を作ることを持ちかけたやなせ先生。
季刊誌の薄いものでいい、編集費は無料で自分の独力でやるから、と頼み込んだところ、二つ返事で了承されて、「詩とメルヘン」が創刊とあいなりました。
これが良く売れたので、すぐに月刊誌へと移行。「『詩とメルヘン』の会社だから」という理由でサンリオに入社してくる若者が出てくるくらいに人気でした。
同時期に「漫画家の絵本の会」という同人サークルも作りました。「絵本好きな漫画家仲間で、絵本の会をつくって丸善で展覧会をしよう」というコンセプトです。やなせ先生や長新太手塚治虫や永嶋慎二などの豪華な面子が集まり、大盛況となります。やなせ先生は、このときの同人たちと一緒に活動したことが、絵本を作るうえで大変勉強になったといいます。
そして同年秋、名作「あんぱんまん」が初公開されます。


もともとアンパンマンは「PHP」という雑誌に連載していた「十二の真珠」という短編童話の中の一つでした。そのアンパンマンは、顔がパンのアンパンマンと違い生身の人間で、戦時下の空を飛んで、飢えている子供にパンを配る正義の味方でした。しかし国境を越えたとたん、未確認飛行物体と思われて撃たれ、身体に風穴を空けて墜落してしまう…というお話でした。
さすがにこれは売れないということで、茶こげたマントに身を包み、アンパンの頭をもった正義の味方、「あんぱんまん」が出来ました。

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

あんぱんまん (キンダーおはなしえほん傑作選 8)

*1


この「あんぱんまん」には、当時流行っていた仮面ライダーウルトラマンなどのヒーローに対する、戦争を経て培われたやなせ先生なりの「正義」のあり方が描かれています。
後書きにはこうあります。

子どもたちとおんなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのか、よくわからないということです。
ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば物価高や、公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです。
あんぱんまんは、やけこげだらけのボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はずかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、飢える人を救います。それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。
さて、こんな、あんぱんまんを子どもたちは、好きになってくれるでしょうか。それとも、やはり、テレビの人気者のほうがいいですか。

やなせたかし 「あんぱんまん」あとがきより)

初期の絵本のアンパンマンは、顔の全てがすっかり食べ尽くされることで、ようやく新しい顔を得ることが出来ます。
文化人類学者の出口顕は、これを「自らの死と引き換えに、または命を賭けてその一部を与えて他者の命を救う、臓器ドナーと同様のことを実践している」と読み、このことが、傷つくことなしには正義は行えないという作者の主張であり、アンパンマンのエッセンスだと解釈します。


当初アンパンマンは、あまり世間から受け入れられませんでした。もともと幼稚園・保育園に直接販売される直販本で普通の本屋に出回りませんでしたし、出版社からはアンパンマンはもうこれっきりで」といわれ、幼稚園の先生からは「顔を食べさせるなんて残酷」と怒りの手紙が届き、絵本評論家からは「子供はこんなくだらない絵本を読んでも面白がらない」と酷評される始末。
そこでやなせ先生は、自分が編集長を務める「詩とメルヘン」に大人向けの「熱血メルヘン怪傑アンパンマンを連載しました。これは先生の好きなフランケン・シュタインをベースにしたお話で、かなりダークな雰囲気のもの。これを紹介するだけでもエントリが一つ出来てしまうので省略しますが、一年続けて「支離滅裂なお話」になってしまったために打ち切られます。ちなみに最終回は、「殺人未遂で監獄に入れられたアンパンマンが脱獄する」というストーンオーシャンな話でした。後にこのアンパンマンも書籍化されますが、現在は絶版です。
そのほかにも先生は「いちごえほん」「イラストレ」などの雑誌を創刊し、三本の編集長をかけもちします。そこでもアンパンマンは、誰に知られることもなく、ひっそりと連載されました。
しかし「あんぱんまん」を認める層が徐々に増えつつありました。
子供には向かないとされたアンパンマンを見出したのは、皮肉にも二歳・三歳の子供たち。
どこに行っても、「うちの幼稚園の子供がアンパンマンが大好きで」などとと言われ、もう少し高年齢向けの作風だったやなせ先生は、どうしたものかと戸惑います。アンパンマンも気持ちとしては小学生くらいの児童に向けて書いていたもの。今まで五歳以下に向けた作品を作るのは無理だと思っていたのに、どうしたものか。しかしやなせ先生はそこで決心を固めました。

この読者層に対して、大人はどう対処するのか。甘い赤ちゃん言葉で「かわいいウサちゃん」くらいのところでお茶をにごしていたのではないか。
ぼくは真剣に考えるようになった。そして、自分のメッセージをしっかりと入れることにした。
「正義とは何か。傷つくことなしに正義は行えない」
やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

「あんぱんまん」のキンダーおはなしえほん傑作選版が出版された76年、六本木の地下劇場で、最初の「アンパンマンミュージカル」が開かれました。このミュージカルで、やなせ先生はアンパンマンの重大な欠点を見つけます。
それは、悪役の存在でした。当時のアンパンマンの悪役は普通の人間で、アンパンマンの相手役としてはパンチが不足していたのです。
そこで先生は「食品の敵はバイキンだろう」ということでばいきんまんを思いつきました。こうして、アンパンマンばいきんまんという永遠のライバルが出来上がったのです。
ネットではよく、二人の対立する理由が不透明なせいで「ばいきんまんアンパンマンから金をもらって、アンパンマンの引き立て役としてわざと人々をいじめて退治されている。本当に腹黒いのはアンパンマン」みたいな冗談が飛び交ったりしますが、やなせ先生自身は、二人の戦いについてこう述べています。

現在は新型肺炎SARS)とか、鳥インフルエンザとか、バイキンが猛威をふるっていて人類共通の敵になっています。しかし酵母菌のようにパンをつくるときに必要な菌、納豆菌とか乳酸菌とか有用善玉菌も多いから、バイキンを死滅させると人間も絶滅する。うまい具合にバランスがとれてるのがいいわけです。
だからアンパンマンばいきんまんの闘いは、バランスを保ちながら永遠に続いていくことになります。
やなせたかし 「人生なんて夢だけど」)

実際には、もやしもん的な深い意味があったわけですね。本当ですか?
ばいきんまんのキャラクターはステージを見ていて生まれました。「ハヒフヘホー」という笑い声も、舞台での子供たちの反応をみて決めたものです。お客の反応をダイレクトに感じられる
ステージは、先生にとって特別なものとなっているようです。
ばいきんまんは「いちごえほん」で連載していたあんぱんまんにも登場し、しょくぱんマンやカレーパンマン、チーズなど、いまのアンパンマンに出てくるキャラクターの基礎が出来上がっていきます。
その後アンパンマンの絵本の売れ行きはどんどん伸びていき、80年を過ぎた頃から、先生の仕事は多忙をきわめます。
しかし、そのとき先生はすでに60歳を超える老境に差し掛かっていました。
身体は次第に言うことを聞かなくなり、白内障の手術や尿道結石などの病気をやりつつ、なんとかかんとか仕事をこなす先生に、大きな落とし穴が近づきつつありました。
奥様がガンにかかっていたのです。


84年ごろから、アンパンマンのテレビ化の話が持ち上がってきました。
当初NHK日本テレビからそれぞれ話を持ちかけられ、NHKの話はキャンセルになり、日本テレビのほうも反対意見が強く話が進まないという状況でした。
ちょうどその頃、先生の奥様が体調を崩して診断を受けると乳ガンでした。やなせ先生は、医師から「末期のガンで、手の施しようがありません。長くて三ヶ月です」と宣告されます。
入院している奥様の見舞いに一日一度は行くけれど、仕事をしなくては食べていけない。さすがに元気がなくなり、仲間の集まりに出てもうつむくばかり。そんな中、里中満智子さんが相談に乗ってくれました。里中さんは「私もガンだったの」と言い、自分のガンを治してくれた丸山ワクチンを薦めます。
医師からは「水みたいなものですよ」と言われつつ丸山ワクチンをうった奥様は、見事に回復していきました。*2
そして88年、ようやく日本テレビアンパンマンのアニメ化が決定されました。

家には余命三ヶ月と宣告された妻。妻の母は老人ボケが進んで入院。僕自身も病気あがりで、いいことは何ひとつなく、昭和天皇のご症状はますます悪く、新番組スタートの恒例イベントも自粛。全く期待度ゼロの灰色の空へ、アンパンマンはごくひっそりと飛び立ったのです。
(やなせたかし 「人生なんて夢だけど」)


それいけ!アンパンマン」は月曜の夕方五時で関東限定放送、何をやっても2%としかとれない時間帯で、半年で終わるに違いない、といわれていました。
しかし前評判を蹴っ飛ばし、見事7%の視聴率をとりました。快調な滑り出しです。
そして三月、アンパンマン文化庁の優秀番組賞を受賞し、スポンサーも大勢ついて全国放送になりました。アンパンマンブームと騒がれ、絵本は飛ぶように売れます。初登場時の酷評ぶりから考えても奇蹟のような話とやなせ先生は言います。
そして90年、やなせ先生は日本漫画家協会大賞も受賞し、漫画家としてひとかどの人物になりましたが、時既に71歳。青島幸男は「やなせさん、ちょっと遅すぎましたね」と言いました。
テレビに限らず、絶えず新鮮でエターテイメント性あふれるユニークなネタを常に出し続けるのは、とても大変なことです。
例にもれず、アンパンマンのアニメもすぐにネタがつきました。そこでやなせ先生は、マンネリズムを覚悟して「バイキンマンがゲストキャラに悪さするのを、アンパンマンがピンチになりつつやっつける」という型に物語をはめ込んでいき、変化は新キャラの登場でつけるようにしました。こうしてアンパンマンキャラの無限増殖が始まります。今では二千から三千種ものキャラが登場し、遠大なアンパンマンサーガを形作っているそうです。


絵本やおもちゃの売り上げは上々ながら、夫婦ともに身体の調子はだましだましの不安定。しかし、そんな様子をおくびにもださないようにするやなせ夫妻は、傍から見れば幸福に包まれていました。
そんな92年の春、先生は勲四等瑞宝章を受章しました。十一月には天皇皇后両陛下主催の園遊会に招かれ、「アンパンマンを書いています」と言って笑いをとったとか。
お祝いに赤坂プリンスホテルで「アンパンマンの勲章を見る会」を開いたら大好評。
奥様は「こんなに面白いとは思わなかった、友達もみんな招待すればよかった」と言ったので、やなせ先生は「よし、この会場で、今度は君の友達を全部招待する」と応えられました。
しかし、丸山ワクチンをやめて抗癌剤のみを使用していた奥様の様態は優れず、次に開かれた「アンパンマン二十周年の未来を祝う会」には参加できませんでした。

世間から見れば、たとえ大変な遅咲きにしても今をときめくアンパンマンの作者としてホテルの大劇場を借り、一夜の豪華パーティー。全員無料御招待。お土産つきの大盤振る舞い。得意満面、順風満帆、幸福絶頂の思い上がりと誤解されたかもしれません。
しかし光と影が入り混じって、このときは半分奈落に落ちるような暗い恐怖と不安。半分は華やいだスポットライトを浴びて、ようやく陽の当たる場所に登場した高揚感。
その心境について誰ひとり知る人はいませんでした。カミさんの友人の皆さんもみんなうれしそうにわらっていましたから。
やなせたかし 「人生なんて夢だけど」)

そして93年、柳瀬嵩夫人、柳瀬暢逝去。ちょうど一月後の命日、愛犬のチャコも急死。
本人の遺志で密葬し、三ヶ月は秘密にするということだったのですが、やなせ先生は茫然自失の状態になります。遺言どおりに表向きは平気な顔で振舞うものの、夜は眠れず、食欲は無くなり耳鳴りは酷く、精神安定剤に頼る生活。

このあと僕はいったい何をするべきか。何を目標に生きるべきか。
アンパンマンのテーマソングはぼくの作詞だが、幼児アニメーションのテーマソングとしては重い問いかけになっている。ぼくはお子様ランチや、子供だましの甘さを嫌った。


なんのために生まれて
何をして生きるのか
わからないまま終わる
そんなのは いやだ!


何をしていきるのか、自分に問いかける時が来た。
やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)


先生はわかったのでしょうか…


次回へ

*1:現在売っているものは、1976年に出版された「キンダーおはなしえほん傑作集」です。

*2:どーでも良い余談ですが、丸山ワクチンは、攻殻機動隊SACの元ネタにもなりました。

アンパンマンができるまで その2

アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて、なんのために生きるのか」というのですが、実はぼくはずいぶん長い間、自分がなんのために生まれたのかよくわからなくて、闇夜の迷路をさまよっていました。
やなせたかし 「やなせたかしの世界」)


同僚の小松記者と思いが通じ合ったやなせ先生。
しかし小松記者は、元上司の社会党代議士の秘書になって欲しいと頼まれ、上京してしまいました。
そして先生自身も、南海大地震の際に地震に気づかず寝てたらスクープを逃した、という事件で、自分はジャーナリストの世界には向いてないと思い、東京に出て新宿三越の宣伝部に入社します。アパート大家の三歳の子供と相部屋ながら、奥様との同棲生活が始まりました。

思えばあの頃はまだ若かった。若さのほかにはなにもなかったけれど。
(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

そこで先生は、三越の包装紙のレタリングなどをしたり、三越劇場のポスターを作ったりしました。
とはいえどやなせ先生、そこで人生を終えるつもりはさらさらない。雑誌への漫画投稿を何度も行い、様々な漫画家と知り合って、独立漫画という団体に所属して、才能が花開いて行くのを間近に見ていきます。
しかして一方、三十路を過ぎても完全に無名のやなせ先生。どの業界でも、戦後派の新人の活躍が目立つようになってきてるのに、やなせ先生は、年齢的に戦前派に入っていました。
内心はあせりが出てきますが、未だに「これがやなせたかしの世界だ!」と言えるようなものが何もない。デザイナーにせよ漫画家にせよ、どの分野にも天才がいる。とても敵いそうにない。
そんな折、三越ストライキが起きました。会社側には右翼陣営から何人かが送り込まれました。その連中は時としてピケットを破り、わざと警官に殴りかかって取り締まりの口実を与えます。
一方組合には左翼陣営からオルグがやってきて、ピケットの張り方から何から細かく指導してきます。

…この労働運動のプロみたいな連中が、「デパートの組合じゃ生ぬるくてしょうがない。ストライキはこんな生やさしいものじゃない」とへんにいばりかえっているのにはムシズが走った。
結局このストライキは権力側の勝利だったが、傷はしばらく残った。正義はやはりアイマイで、どちらが正しいとはいいきれなかった。
ぼくは退社の決意を固めた。
(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)


そしてフリーになったやなせ先生。色々な仕事をこなしますが、代表作はありません。
雑誌記者まがいの仕事や、ラジオ番組の仕事などをしているうちに、女優・宮城まり子にたのまれ、リサイタルの構成台本を頼まれました。その縁から、次第に司会や構成などの舞台仕事が増えてきます。

宮城まり子の仕事を手伝っているうちに、エンターテイメントのショービジネスの基本は、まず眼の前の客をなんとしてでも喜ばせることだと悟りました。お客さんの喜びの拍手が、自分の喜びになる。
(やなせたかし 「人生なんて夢だけど」)

しまいには永六輔が舞台美術の仕事をたのみにやってきます。その縁から、作曲家のいずみ・たくと出会います。
作詞:やなせたかし、作曲:いずみたく、歌:宮城まり子…この三人によって、名曲「てのひらを太陽に」が生み出されました。「てのひらを太陽に」は、1962年、やなせ先生が10チャンネルのニュースショーの構成をしたときに、その中の今月の歌として作られました。

『手のひらを太陽に』を書いたのは、あまりマンガを描いてなかった頃。その頃マンガは劇画が主流で、僕は劇画はいっさい描かないから仕事が少なくなってた。そんなとき、ふと夜中に手を懐中電灯で透かしてみれば、まっ赤に流れる僕の血潮だった。自分は仕事がなくなってゲンキがなくても、僕の血だけは赤くてゲンキなんだなと。それが『みんなの歌』で流れてから全国的に広がっていった。小学校の教科書なんかに載ってね。これがきっかけで僕は童謡協会に入れられてしまう。童謡をつくる気なんかなかったのに、童謡もつくるようになってしまった。人生わかりません。<http://www.kepco.co.jp/kankyou/05kokoro/back/06_07.html>

俗説では「復員した特攻隊の歌」という話もあるようですが、やなせ先生の自伝などを見る限りでは「仕事場の懐中電灯を自分の手のひらにあてるレントゲンごっこしてたら思い浮かんだ」とのことです。まあ、やなせ先生のことですし、それ以外の意味も重ねているのかもしれませんね。
そして先生は向田邦子と知り合ったり、立川談志師匠といっしょに「まんが学校」というNHKの番組を司会したりします。しかし永六輔にしても向田邦子にしても談志にしても誰にしても、みんなあっという間に時代の寵児となっていきます。テレビやラジオの仕事に凝っていたら、いつの間にかぽつんと取り残されているやなせ先生。


この頃、漫画界も大きく変わっていました。「宝島」で手塚治虫が一世を風靡し、漫画のスタンダードが長編漫画へとシフトしていきました。手塚以前・手塚以後でハッキリと区分けされ、漫画の制作方法も、個人作業からアシスタントを使うプロダクション・システムが主流になっていきます。61年には虫プロが発足し、63年には鉄腕アトムが放映開始。順風満帆に見える手塚治虫も、劇画の台頭に頭を悩ませ、白土三平など新時代の劇画作家たちに激しいジェラシーを燃やしてきます。このあたりは「漫画道」とか「愛・しりそめし頃に…」の世界ですね。
そんな状況の中で、やなせ先生は、山梨シルクセンター(現サンリオ)の社長に「詩集を出そうよ」と誘われます。ラジオで使ってた歌詞を載せた、やなせたかし初の詩集「愛する歌」を出版したところ、これが売れて十万部以上の大増刷。その後は陶器屋さんと一緒に絵皿や詩の描かれた湯飲みなどを売り出し、これもヒット。女性のファンが増えました。
様々な仕事をマルチにこなし、そのどれもでまずまずの成功を収めるやなせ先生。一見順調な人生にも見えますが、本人の意識はまた別でした。

漫画家の中では相変わらずランクは眼にも見えない下の方で、相撲の番付で言えば序二段ぐらいのところだ。
そして、漫画集団世界旅行というのにもさそいの声さえかからなかった。自分が完全に無視されている、存在していないのとおなじ、ということが身にしみた。
ぼくより十年も二十年も年齢の下の連中が、花形としてもてはやされているのに、湯飲み茶碗の絵を描いたりしてごまかしながら生きているのはみじめだった。

(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

その口惜しさから、やなせ先生は意を決して「週刊朝日」の懸賞漫画に応募しました。プロのくせに落ちる恥を想像すると心がひるみましたが、挑んでみることに決めました。

ぼくは、漫画の原則はパントマイムだと思っている。エキゾチシズムでうけるのではなく、全世界どこへいっても理解できる無国籍のものがいい
さて、キャラクターはどうする。
一番強いのはゼロではないか。主人公の顔がまったくわからないのがいい。読者の想像にまかせる。

(やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

こうして、帽子をかぶり逆光に立つ、顔の見えないミスター・ボオ――つまり、某氏――が生まれました。
ミスター・ボオは見事入選。しかし特に変化もなく、日々は過ぎていきます。
しかしある日のこと、手塚治虫からやなせ先生に電話がかかってきます。その内容が、「長編アニメのキャラクターデザインをたのむ」というもの。冗談だと思って適当に返事してたやなせ先生は、気づかぬうちに虫プロで描くことになりました。この頃のことを「WEBアニメスタイル」から引用してみましょう。

── キャラクターデザインとして、やなせたかしさんを起用していますよね。このアイデアは、手塚さんの方から出てきたんですか。
山本 いや、「アニメーションのデザイナーを誰にしようか」というのを、手塚さんが僕と杉井ギサブローに聞いたんですよ。で、その時に杉井ギサブローがすぐに「やなせさんがいい」って。
── そうなんですか! なぜそう思ったんですかね。
山本 分かんない。とにかくすぐにそう言っていた。それで、考えてみると、やなせさんはなかなかいいから、それで彼に頼んだと。
── 当時、やなせさんは、皆さんにとってどういうイメージの方だったんでしょうか。
山本 難しいマンガを描く、あんまり有名じゃない作家かなあ。
── まだ「アンパンマン」も描いていなければ、「詩とメルヘン」も始まってない頃ですものね。
山本 (やなせさんが)映画の批評をやってたのね。だから、映画を見る目はあると思いましたよ。
── 漫画家としては、ちょっと通好みな感じですか。
山本 うん、そうそう。
(WEBアニメスタイル 「山本暎一インタビュー」)<http://www.style.fm/as/13_special/mini_060116.shtml>

この千夜一夜がヒットしたので、手塚治虫が「短編アニメを一つ、好きなように作ってくれてかまいませんよ。制作費はぼくのポケットマネーから出します」と言い、やなせ先生はラジオドラマでやっていた「やさしいライオン」の話をアニメ化しました。
これが毎日映画コンクールのアニメ部門で色々な賞を受賞し、その少し前に出ていた絵本も売れて、フレーベル館とやなせ先生の縁が深まりました。
そんな嵐も過ぎた頃、やなせ先生はもう40後半。漫画家としては年貢の納め時なのに、ほめられもせずけなされもせずというところ。
未だに自分の仕事も定まらぬ中、やなせ先生に大きな転機が訪れます。


次回へ

アンパンマンができるまで その1

なんのために生まれて
何をして生きるのか


これはアンパンマンのテーマソングであり、ぼくの人生のテーマソングである。
やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

意外にやなせたかし先生の黒っぷりを知らない人が多いようなので、先生についての話でも書こうと思います。
やなせ先生の出身地は高知県香北町の朴ノ木。今の香美市にあります。
先生の家庭環境は中々複雑です。
父は朝日新聞の特派記者で、先生が物心つくかつかぬかという頃に一人中国で客死。
体の弱い弟は親戚の伯父の元に養子として引き取られ、幼い頃は未亡人の母と父方の祖母との三人暮らし。
小さい頃から「弟さんはお母さん似でハンサムで快活なのに、お兄さんはお父さん似でおとなしいけど器量が悪いのね」と何度となく言われ、長じてからも弟はイケメンで柔道二段のスポーツマンで性格も良く、京都帝国大学に進学するほどの出来のよさ。一方自分は不器量で暗くてシャイでコンプレックスの強い性格になった、と本人談。
また母は生活のために様々な習い事に出る活発な女性だったけれど、時にヒステリーを起こしたり、しつけのときにはやなせ少年を物差しで叩いたりなどしていたとか。また派手好きで濃い化粧をし、いつも何人かの男性が周りにいるような生活。昔の地方ですから、そういう母の悪口を色々な人が口にします。母が好きなやなせ少年は、その悪口がとても嫌だったといいます。
留守がちな母に代わり子の面倒をみた祖母は、やなせ少年を溺愛し過保護に育て、「この世で信用できるのはお前と神様だけだ」と言うほどでした。そのため、生活は貧しいくせに世間知らずのお坊ちゃんに育ってしまったといいます。
そして小学二年のときに母が再婚し、弟を養子に出した伯父の家に自分も引き取られます。
弟はあくまで養子だから養父母と一緒に奥座敷で寝るけれど、自分はあくまで居候だから、歳の離れた叔父の住む書生部屋に寝泊りです。弟とは容姿でも能力でも待遇でも差をつけられる日々。
そんなハードな状況でもへこたれることなく、呑気に暮らしていたやなせ少年。しかし思春期になると色々な問題が出てきます。
学校の勉強についていけなかったり、勉強しようと思っても二次性徴により性欲をもてあまし、皮膚が弱いのでニキビだけでなくハゼの木や机のニスにやられて全身包帯巻きになり、さらにはインキンタムシに水虫までやって、少しもいいところが無かったとか。
理由も無くひたすら泣きじゃくったり、自殺願望が高まって線路に寝転んだり(列車が近づくと怖くなって逃げた)、精神的にもかなり不安定だったそうです。
そんな少年でも恋に落ち、女学生の一人に一目ぼれ。初恋の彼女に変名で恋文を送ると、彼女の父親から「今度こんなことをしたら学校へ通告する」と書かれた手紙が返ってきて、あえなく初恋も散り…ああ、先生…(’A`)
さて、美術、特に叙情画が好きだったやなせ少年は、東京高等工芸学校(現千葉大)に入学。東京は二・二六事件が起こるような空気へと変わっていきましたが、先生は銀座で遊んだり電通のバイトをして、大正デモクラシーの中で青春をすごしました。
卒業したら、製薬会社の宣伝部の社員としてイラストを描いたりして働いてましたが、いよいよ軍隊に行く日がやってきました。


水木しげる先生もそうですが、やなせたかし先生もビンタでしごかれまくったのをそこそこ根に持っているようで、どの自伝を読んでも少なからずしごかれた話が出てきます。しかし軍隊生活も二年目くらいになると、身体も丈夫になり、慣れてきたそうです。
現役もようやく終わるかという頃、日中戦争が勃発し、やなせ先生は中国へ派遣されます。暗号班で聯隊本部づきだったやなせ先生も、目の前で何人かに死なれたそうです。
とは言えど、基本的に後方の部隊だったので大きな戦闘に巻き込まれることもなかったそうです。紙芝居を作って現地の子供たち相手に宣撫班の真似事をしてみたり、軽度のマラリアに掛かったり、上海決戦に備えてるうちに敗戦の詔勅がだされ、戦争が終わってしまったそうです。
復員してみると、弟さんは特攻隊で亡くなっていました。
先生自身としては、特別大きな戦闘に参加することもなく、空白地帯をウロウロしてただけの軍隊生活に、ある種の負い目を感じていたそうです。

内地に残っていた銃後の国民のほうがよほどつらい目を見ている。たとえ、戦火に逢わなかったとしても飢えに苦しんでいる。
比較すれば、ぼくは甘い生活をしていた。

やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

戦争の経験が、先生に「飢え」に対する恐怖と、そこから救ってくれることの偉大さを思い知らせたそうです。そしてこれが、後年の「アンパンマン」へと大きく影響します。

食べられないというのは、ものすごくきついですよ。飢えれば人肉だって食べようという気持ちになるんだから。このごろ、子供に食事を与えず、餓死させたなんていうニュースがありますね。これはもう、きついと思います。今は、みんな食べ物が無限にあると思っているけど、実際はそうじゃない。特に日本は食べ物を輸入しているんですから。
やなせたかし 「時代の証言者⑧」読売新聞社

ぼくは優れた知性の人間ではない。何をやらせても中くらいで、むつかしいことは理解できない。子供の時から忠君愛異国の思想で育てられ、天皇は神で、日本の戦争は聖戦で、正義の戦いと言われればその通りと思っていた。正義のために戦うのだから生命を捨てるのも仕方がないと思った。
しかし、正義のための戦いなんてどこにもないのだ。
正義は或る日突然逆転する。
正義は信じがたい。
ぼくは骨身に徹してこのことを知った。これが戦後のぼくの思想の根本になる。
逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点となるのだが、まだアンパンマンは影もかたちもない。

やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)


さて、ようやくやなせ先生が復員してくると、仕事といえば屑屋くらいしかなかったのですが、意を決して高知新聞の採用試験を受けると見事合格。「月刊高知」という雑誌の記者になりました。
そこで小松記者という、先生の亡き奥様と出会われるのですが、そのあたりのエピソードが…「それ何てエロゲ?」みたいな超展開ばかりでして…少々書くのが躊躇われます。とりあえず山場だけ紹介しておきましょう。

……駅のそばだったがひどく暗かった。遠雷が鳴っていた。小松記者は、「もっと雷が鳴ればいい」と言った。その次の言葉は、低くてちょっと聞こえにくかった。
「やなせさんの赤ちゃんが生みたい」
「え?」
なるほど、これが殺し文句か。必殺のひと言でたちまち心は燃え上がり、ぼくは小松記者を抱きしめて、唇を重ねた。腕の中でぐったりと彼女の身体が重くなって、全身のちからが抜けていった。遠く紫色の閃光が、ギザギザに暗夜のカーテンを切り裂くのが見えた。そのとき、ぼくはこの人と結婚しようと決心した。
どうも、この辺は書いていて恥ずかしい。それに、ぼくはラブシーンが不得手だ。

それ
なんて


人生の伴侶は得られましたが、戦後のインフレ続く頃、人生の行く先はまだまだ不透明なことばかり。
やなせ先生の漫画家人生は、まだスタートラインにもたっていませんでした。


次回へ

オタクの笑い~アニメ会に期待すること~

ようやく「現代視覚文化研究」を手に入れました。
完全に旬を取り逃しているけど、どうせ開店休業中のブログだから良いんだよ!
ということで今日はアニメ会についてのお話ですよ。
アニメ会のライブのレポは何度と無く書いてきているのですが、アニメ会に対する考えをきちんとまとめたことはなかったんで、「オタクにおける笑い」とその中でアニメ会に感じていること、期待していることを書こうと思います。


これは以前もチラッと書いたのですが、アニメ会が今後どういう方向で活動していくのかっつうのを、ファンだけでなく、オタク全体が注目したほうが良いのではないかなと。っていうと話が大きくなるのですが、やはりアニメ会は今までの芸人風オタクたちとは違う新しい存在で、アニメ会自体に興味が無い・あるいはつまらないと思ってるような人でも、注目に値するものなんじゃないかなと思うのですよ。


喋らせたら面白いオタクというのは、岡田斗司夫唐沢俊一をはじめ、何人もテレビなどのメジャーな場に出て行きましたし、芸能人でアニメとか好きっていう人も大勢いました。
とはいえど、じゃあそういう喋れるオタクたちがテレビで何をやってるかというと、日本のアニメが海外とかでウケてますってときに少しコメントする役回りとか、バラエティ番組とかで雑学豊富な変なおっさんという役回りをさせられたり、かろうじて文化人タレントとしてワイドショーのパネリストになったり、残念ながら一般向けの番組では脇役扱いになりがちです。BSアニメ夜話みたいなのオタクがメインにくる番組もありますが、見てるのは殆どオタクですし。
一方、芸能人でアニメ好きっていう人は最近大勢います。品川庄治の品川とか土田晃之とか、他にも色々。ただ、そのうちの多くはガンダム限定とかジブリ限定でアニメが好きってだけで、それ以外の特撮やマンガやゲームのことを語ることは(出来るのかもしれないけど)しません。そういう人たちの「アニメ好き」ってのは殆どが自分のキャラ付けの一つであって、「アニメも見れるオレ」を演出してるか、世代的なあるあるネタの一つとして使ってるような…いや本当に好きかも知れないけども。
しょこたんとかいるじゃん」
確かに中川翔子は生粋のオタクな芸能人かもしれませんな。とはいえど、中川翔子がオタクキャラとしてテレビに出るときは、基本的には「かわいいお嬢さんがパープリンな言動してる」っつう感じで消費されているだけで、宅八郎以来の「マニアックで言動が奇抜なボケ役」というオタクキャラのポジションとあんま変わらないもんです。*1
結局のところ、テレビにおけるオタクタレントの求められる姿は、宅八郎以来進化してないわけですな。


そもそもオタク的な笑いってなんなのかというと、オタクアミーゴスがマイナーな特撮番組のネタで笑わせるにしても、ヌルオタ芸能人のガンダムはここが良いんだとかの話で笑うにしても、秋葉カンペー宅八郎っぽいギャグを笑うにしても、秋葉原の街頭インタビューのオタクを嗤うにしても、「なるほどこれはオタクっぽい」みたいなものを笑うわけですね。オタク的な位置に立ってオタクっぽいネタを振舞うことで笑わせる、というやり方が普通のオタク芸。
しかし翻ってアニメ会は、「オタクらしい」ものを笑うのでなく、「オタクらしい(常軌を逸した)言動に対して、極めて一般的視点からのツッコミをする」ことで笑わせてるんですな。ある意味ではオーソドックスなお笑いの方法です。たとえば「プリキュアにドロドロンっていう敵キャラが出てきて」みたいなオタクネタに対して、ネタを言う方もツッコミを入れる方も、「30歳過ぎた男が、ドロドロンとか言ってはしゃいでるのか…バカだな…」みたいな、自虐的かつ常識的な位置に立つことで、観客を笑わすわけです
今までこのあたりがなんとも言語化できずにヤキモキしていたのですが、こちらの方がうまくまとめてらっしゃったので、それを使わせていただきました。御免ポポー∩( ・ω・)∩

ちょっと引用させてもらいますと、

普通、アニメネタ、オタクネタというのは、ことに密室的なトークライブなどになると「いかに濃いことを知っているか」ということになりがちである。
それはそれでものすごく好きなんだけど、どんどんお客の幅をせばめてしまうというジレンマがある。
ところが、今回見たかぎり、アニメ会のライブっていうのは、題材は萌えアニメでも、
それに対するツッコミは一般的なものなんだよね。
それはもう徹底して一般的にツッこむ。
だから、元ネタをまったく知らなくても笑える。
ゾミ夫(うさちゃんピースを見て飛んでくるUFOが夕日に照らされている) 06年12月8日

ということです。ネタはオタク的なことなのに、あくまでも視座が常識的。
僕らが普段アニメ会のオタクネタで笑ってるのは、「萌肌実」とか「蟲師川柳」とかのネタの元ネタを知ってるオタクでないと笑えないような部分だけじゃなくて、そこに対する極めて一般的・常識的な思考のギャップにも笑ってるわけです。
だから中川翔子とアニメ会の違いは何かっていうと、どっちもボケとしては極めてオタク的なもので、「アキバのこんなところに行った」とか「こんなコスプレしてみた」とかなんですが、中川翔子はそのボケの突っ込みを観客にゆだねて一人突っ走るしかないのに対し、アニメ会はその場で三平さんやタツオさんが「頭おかしいだろ!」と常識的なところに突っ込み返すことが出来るという点です。


だんだんゴチャゴチャしてきたので、「オタクの笑い」と、その中でアニメ会がどういう位置にあるのかというのを、簡単な図にまとめてみました。
「あの人が入ってない」とか「あいつの方向性が違う」とかありましょうが、許してくだせえ。

さて、上の図は、縦軸が「ボケ」の方向性で、上が「感覚」下が「知識」となっています。
「感覚」は「オタク的な言動」「オタク的センス」で笑わせるタイプのボケ。ピエロの笑いです。
一般人がニュース番組で「萌え」とか言ってる人を見て「うわー、オタクっぽーい」とか言いながら笑うのもこれですし、中川翔子がテレビで「ギザワロス」とか言ってるのを見て「そんなところで2ch用語使うなよー」とか言いつつニヤニヤしてしまう笑いもこれに入ります。アニメ会の「萌え話」なんてのは、ある意味これの極北、オタク的言動が行くとこまで行った姿ですね。
下の「知識」は、オタクの専門用語を利用したボケです。これには大体二つあって、一つはあるあるネタ、もう一つはパロディネタ。
わかりやすい例えで言うと「サルまん」なんかがこれに当てはまると思います。「野望の王国」を基本に、マンガの「お約束」をみんなが知っているのを前提として、それをちゃかすことで笑いをとるわけです。パロディだけでなく、ただ知識を披露する事でとる笑いもこれに含まれます。「うわー、よくこんなマニアックなマンガ見つけたなー」とか、「そうなんだよ、あの回の作画はホントに酷かったんだよ!」っていう笑いがこれです。「あの監督はこの声優に手をだして振られた」みたいな裏話的な笑いのもこれに含まれますかね。第一・第二世代オタクが得意としてきたボケの方法です。オタクにとって馴染み深い笑いは、どちらかというとこっちのほうでないかなと思います。
で、横軸は「ツッコミ」の方向性。右が「常識的」左が「オタク的」
ツッコミとは、ボケに対する反応です。
特にオタクのボケはブラックなものやクレイジーなものが多いので、適切に突っ込んでもらわないと、ジョークじゃなく本気でこんなこと言ってるのかと思われて、大変なことになることもあります。
「常識的」なツッコミは、上述の通りオタク的なボケ(常識に外れるもの)に対して、「なんでやねん」的な反応をすることです。これにより「ああ、今の毒舌はボケなんだな」「あのコスプレはギャグね」という安心感が得られます。
これに対して「オタク的」なツッコミというのは、基本的にはジャーゴンとかを用いた反応です。
「なぜだ!」という問いに「坊やだからさ」と応えるようなツッコミ。「ちょっとした段差を飛び降りただけなのに足くじいた」と言ったら「お前はスペランカーか」と応えるようなツッコミ。そんなツッコミがオタク的なツッコミです。これは半ばボケにボケで返すようなもので、下手すると歯止めが利きませんが、オタクが何人か集まるとすぐに展開されがちです。ある意味で「萌え」ってセリフもここに入るのかもしれません。
「知識」のボケと「オタク的」なツッコミとがどう違うのかがややこしいかも知れませんが、あくまでボケは「最初のきっかけ」というか「ネタ振り」みたいなもんで、ツッコミはそれに対する反応、という風に考えてくださいな。


とまあ、こんな分類で、それぞれがメディアに露出するときのスタンスと、オタクにどう消費されてるかを考えると、上図のような形になるんじゃないかなと思います。適当に作ったものなので異議ある方も多いかと思いますが。
で、こういう分類で見たとき、今まで一般人に消費される「芸人」で「オタク」の人たちっていうのは、「感覚」的なボケで「オタク的」なツッコミをかますのが殆どだったと思います。この人たちがオタクに今一好かれない、良くない理由は、基本的にオタクっぽいアクションのボケで笑いを取ろうとしてるのに、ところどころアニメのセリフとか(それも割と世代のあるあるネタのような類の)で他人のオタクネタに反応してみせたりして、「俺もこのアニメに詳しいのよ」的な素振りをしてることだと思います。ようは知ったかぶりをしてる割には、普通のオタクたちからはヌルいものに見えてしまうところがダメなんだと思います。「なんだこいつ、いかにもオタクですみたいな振る舞いしやがって、この程度でガノタ気取りかよ!もう坊やだからさとかは聞き飽きたよ!むしろイタイよ!」みたいな。


一方、密室芸を発展させてきた、「オタク」で「芸人」ぽいことをしてる人たちオタクアミーゴスとか、ロフトプラスワンでマンガとかアニメ関係のイベントをやったりするような人たち…は、大体が「知識」を必要とするボケに「オタク的」なツッコミをかましているパターンが多かったように思います。
いまいちピンと来ない人は、平野耕太先生のこの文章がわかりやすい例だと思います。

(引用者注:「神様家族って何?」という話で)
もしくは宮崎吾朗のことじゃねえの?
神様と呼ばれていたアニメ監督の息子は、コネで入ったテーマパークの館長。
でもなんとかアニメ監督にしないといろんな人が困る。
日テレとか。
で、可愛い子ちゃん天使の格好をした鈴木敏夫プロデューサーが
いや、どっちかと言うと、悪魔の格好をした鈴木敏夫が、
シュナの旅の本片手に「これ見て描け。」と強要。
ルグゥインは俺が丸め込んでおく、俺が丸め込めねーのは押井守だけだと豪語。
お前はわしの言うこと黙って聞いとけばいいんじゃ。
わしにかかれば、アレだ。
道端のウンコだって神輿の上で一流のアニメ監督に仕立て上げてくれるわ!
さー吾朗はドーンと死んで来い!
まあお前でしくじっても、高坂希太郎がおるわいなあ!
ぐわーっはっはっはー!ぐわーはっはっはー!
希太郎がしくじったらあれじゃ!細田じゃ!細田守を連れてまいれ!
何!来ないと申すか!?
ぬううう!細田めえ!このワシに逆らうと申すか!?
ぬうううううう!誰ぞ!誰ぞある!
細田を!細田を討ち取ってまいれぇーーーっ!
鈴木敏夫の声は、三国志董卓で読んでください)
(吾朗は献帝で。)
高坂希太郎曹操で、細田守劉備で)
とかいう話じゃねえの?
(違います)
(途中から完全に三国志になってます)

何よあんなブス!アタシ、負けないわよォーッ!(水商売の女が自宅の便所で)日記より

そういうわけで岡田斗司夫とか唐沢俊一をこの辺に当てはめてしまったのですが、この人たちは一般受けするときのやり方も心得ているので、突っ込み軸を行き来可能としました。トーク会場のオタク濃度が濃い場面ではオタク的なツッコミを、薄い場面では常識的なツッコミをと、器用に切り替えるやり方ですね。ネタ自体は初代ミクロマンの話とかでも、「それは変身サイボーグです!」みたいに返すことも出来るし、「ほらね、こんなくだらないことで何時間も話せるのがオタクなんですよ」みたいな形で落とせるという。


一方、本田透が何で常識的なツッコミの方に入ってるんだと思ったかも知れません。でも電波祭りとかに行ったことのある人やラジオをよく聴いてる人はわかると思うのですが、本田さんはボケ自体は知識を要求するようなものが多いのですが、ツッコミは大抵常識的な視点からのものなんですよ。アニメ会のオタク的な行動に「いやー、それはキモイですよ」とか反応したり。
でもオタク的なツッコミで返せなくもないので、本田さんのほうも「行き来可能」としました。
この「知識」を要求するボケで「常識的」な反応を行う人って言うのは、他にはどんな人がいるかな…あんまり思い浮かばないですが、オタクが自分のトークを一般人に受けるようにする時っていうのは、こういうスタンスになりがちかなと思います。


そこでいよいよアニメ会の話です。
繰り返しになりますが、彼らのギャグで面白いのはあくまで「感覚」的なボケです。
リリスコスプレをした亀子さんが「ウジ虫」と言われるネタを何度もやったり、「ねこにゃんダンス」にあわせてアニメ会みんなで踊ったり、自分の妄想フルスロットルの「萌え話」を延々と披露したり。どれも、実はその作品自体を知らなくても楽しめるようなギャグなんですね。問題は、そこでいかにオタク的でぶっとんだセンスのことをしているかで。
で、そこに対してあくまでも「常識的」な立場からのツッコミをする。それがアニメ会の面白みであり、他と一線を画す部分です。あくまで自分たちは非常識な振る舞いとわかってやってますよ、とすることで、オタク的なものを敬遠する人にも「アニメ会は分別を持った上でああいうことをしているんだな、安心して笑っていいんだな」という意識を持たせることが出来るのです。
また、上図では「アニメ会はボケ軸の行き来が可能」としましたが、アニメ会はたまにディープな知識を必要とするネタを挿入します。そうすることで、オタクたちに「あいつらはわかってる連中だ」というコンセンサスを得ることができるわけです。この辺はアニメ会自身かなり計算してやってるのではないかと思うのですが。
何が言いたいのかというと、基本的にボケが知識を求めずオタク的行動・オタク的センスで笑わす「感覚」的なものでありながら、ツッコミが「常識的・一般的」な視点にたっているので、オタクな人もオタクでない人でも、アニメ会のギャグで同時に笑うことが出来ることにあると思います。


オタクっぽく振舞うことで笑いをとる、宅八郎系列の笑いは、そのインパクトで一般人を笑わせることが出来ましたが、オタクの支持は得られず、一般人にもイロモノとして使い捨てられました。
オタクの知識を応用した笑いをとる、今までのオタクたちの芸は、知識の全く無い多くの一般人を笑わせるには難しいものがあり、メジャーになることは出来ませんでした。
一般人の気持ちを代弁するようなツッコミをいれるにしても、やはり知識の共有を前提とする笑いでは、なかなか普遍性が持てません。
しかしオタクっぽいアクションや、オタクらしいセンスの言葉を使いながら、それを一般的な言葉で突っ込んでいく、そんなアニメ会のやり方は、知識のあるオタクにも、知識のないオタク以外の人にも受ける普遍性があります。


だから、アニメ会に望むのは、オタクたちの間だけで受けて終わらないでほしい、ということです。
オタクでない人たちのちゃぶ台をひっくり返して、「アニメ会すげえ!萌えってすげえ!」と思わせることが、アニメ会には出来ると思うんですね。
だから、もしそういう方向にアニメ会が行くなら、今までのオタク芸人たちとは全然違う形で、一般の人々やオタク自身に受け入れられると思うんです。
そうすると、アニメ会に興味の無いオタクたちも影響を受けることになるから、「アニメ会は違う」っていう認識をみんなが持っても良いんじゃないかと思って、こんな文を書いてみました。
でも「現代視覚文化研究」とかを読んだり、最近の動向を見てると、オタク専門芸人兼ライターと化してきているので、その方向のままズルズルいったら勿体無いなあと。今はオタク界で足場を固めてる準備期間なのかも知れないのですが。
なんにしてもですね、アニメ会には、オタクでない人、普段から萌えアニメとか見てない人を笑わす力があると思うんですよ。
ということで、まずはそれを証明するためにも、全然アニメの放送してない地方巡業とかをやってみてですね、それで本当にアニメ会はアニメを見てない人にも受けるネタが出来るかという実験をしてみては如何でしょうかという提案がしたいわけでして…ゴニョゴニョ


まあ長々と書いてきましたが、結局一番僕が言いたいことは、次の倉田先生の言葉に集約されています。

最近テレビでタレントや芸人さんがアニメやマンガについて語っているのをよく見かけます。これがもうヌルくてヌルくて!ドつまんなくて!アニメ好きであるはずの私が思わずテレビにX-BOX360のリモコン(ワイヤレス)を投げつけたくなる衝動にかられるほどで(でもしょこたんと土田からは本物の匂いが……)。あの程度でも「マニア」とか言われる日本に絶望した!世の中には、いや都内にはもっともっとアニメが「好きでオモシロい」、業の深い連中=アニメ会がいるというのに!気分としては身体能力が遥かに勝るマサイ族の村から世界陸上を見てるような、なんか結成したてのアストロ球団のマネージャーみたいな、ドームの地下格闘技場の控え室のテレビで亀田三兄弟見てるような!そんな歯がゆいキモチです。アニメ会の皆さん、早くブレイクして世間を本物のアニメ地獄に叩き込んでやってください!もう『アナタが選ぶアニメの名場面』でハイジとかドラゴンボールとか見飽きたよ!OVA版『グラップラー刃牙』とか『ゲンジ通信あげだま』とか『獣兵衛忍風帳』とか見せてくれよ!今後のご活躍に期待しております。
(倉田英之 「週刊わたしのアニメ会」 ※大文字部分は引用者によるもの)

でも、おたく的な研究をいくらやってもつまらない。結局は重箱の隅をほじくりかえすだけだし、わかってる同士でうなずきあっておしまいみたいな感じですよね。それよりは興味も持ってなかったような人を驚かせて、相手の価値観を変えてやる方が楽しいかな、と思うんですよ。
(柳下毅一郎 「柳下毅一郎インタビュー」より)


次のライブは3月5日の中野ゼロですよー。

*1:映画秘宝のコラムとか見てると、もっとまともに面白い事も喋れるのに。もったいない。

興奮と快楽という話

いつまでもアレな文章が一番上に来てる状態はいかがなものかと思うので、更新しようと思うものの、雑事に気力を取られてネットに書くことすらしんどくなってしまう昨今。
さて、毎日毎日お外で色々な人に会います。最近ですと、どこぞの会社の社長さんとかのお話を聞くことが多いのですが、求職活動してるわけでもないのに大人物の話を聞かされると、これが結構疲れます。
ワンマンでのし上がってきたアントニオ猪木系の人たちの話というと、「最近の若者は修行が足りん」的なことを良く仰います。いや、直接そうは言わなくとも、結局はそう言ってる人が結構多いです。
専門的な話は面白いのに、そういう話になるとつまらなくなる人というのは結構多いので、へえ左様でありんすかと聞き流していることのが多いのですが、最近ようやくこういう人の世界観がわかってきました。
こういう人たちに大体共通してるのは、福本伸行的世界観というか、「人間は常に勝負をするべきだ!そうでなければ生きていけない!そして人生の楽しみはそこにあるんだ!」的な世界観なんですね。仕事であれ恋愛であれ何であれ、とにかく積極的に何かに働きかけまくって、現状を改善することが大事なんだ!っつう価値観。
なんで、こういう人は「自分と価値観が異なる人とかでも積極的に語りかけていくべき」「自分には嫌な人物や辛い状況があっても、そこに飛び込んで、なんとか自分や周囲を変えるように働きかけなくてはいけない」的な考え方をしています。
そこから「自分にとって、ぬるま湯的な空間で閉じていくのは良くない事だ!」的な考え方を経て、「自分の世界に篭っていこうとするオタクはダメだ!」的な発想に至る人が多いんですね。で、向こうが僕をオタクだと知ってたりすると、そういう難癖つけてシメてくるという展開になって、「ほあーん」という気分になります。
「現状を改善するためには、なんにしても動くことが大事」っつう考え方自体は確かに大事なことだと思うのですが、そんなん『天』の最終巻読めば誰でもわかるわ!自分としては「妄想に逃げてる人だって、日々の生活はあんたに死ぬほどコキ使われる毎日なんだから、どっかタコツボ的な世界でヌクヌクしてる部分押さえるのもええやん」と思うので、こういう話聞いても、あんまり心動くことがないですな。高校生くらいで聞いてたらまた違ったでしょうけど。


で、岡田斗司夫も以前これに通ずる話してた気がするなあと。
何に載ってたかと本棚をあさったら、糸井重里と対談したときの話だった。

糸井さんが言ってるのは、「もっと楽しく生きろ」ということ。
つまり「人生の喜びとは快楽である」というテーゼ。
乱暴に決め付けるけど、僕は、この考え方はかなり女性的でM的だと思う。
僕にとっては「人生の喜びとは『興奮』である」というのが正しい。
岡田斗司夫 「月刊 岡田斗司夫」より)

話の流れとしては、「個人の力の及ばない、コントロールしようのない状況に対して、それでもコントロールしようとする人間=サド=岡田斗司夫=状況に戦いを挑む『興奮』に人生の幸福を置く人」「状況はどうにもならないから、自分が最大限楽しめる方向でいこうとする人間=マゾ=糸井重里=状況に遊ぶ『快楽』に人生の幸福を置く人」だと。もしかしたら読み違えてるかも知れませんが、たぶん合ってるかと思います。*1


で、「人生は勝負」みたいに考えてる人は、この話で言うと「興奮」に人生の幸福を置いていて、オタクとか喪男…というか「勝負ばかりはめどいから逃げる」と考える人は「快楽」に人生の幸福を置いてる、という風に分けられてるんじゃないなと。
状況に対して働きかけを行って、それによって得られる結果に幸福感を感じる人と、状況への働きかけを放棄して、一旦脳内をハッピーな状態にすることに幸福感を感じる人という分け方です。
たとえば異性と交際できるかどうかという話ですと、女にモテネーっつう状況があるとして、興奮に重きを置く人は「とりあえず声かけろよ、うまくいけば付き合えるし、ダメなら『あの女にフラれた』って笑い話が出来るじゃん!」みたいな思考するのに対し、快楽に重きを置く人は「フラれた後の社会的リスクその他諸々考えたら、エロゲーエネマグラ買った方がよっぽどお得で幸せ」みたいな思考になると。
だから興奮派の人たちが「修行が足りん」「動かなきゃダメだ」っていうのは、「状況に戦いを挑むにしては全然力が無いのに、呑気にしすぎだ!」とか「まあ力はなくとも、動いてさえいればなんらかの影響が自分や他人にあるだろ」つう考え方をするからなんですな。
でも快楽派の人は「いや、修行とかしたくないから。してもどうしようもないし」「動くと他人がシメてくるので嫌です(><)」という返事になるわけです。
で、それを聞いた興奮派の人は「ホントは他人にシメられても状況を変えたいんだろ!」と言ってきて、快楽派は「いや、ホントにシメられる位ならいらんのです」と答え、で「ウソ付け!」といわれ「ウソちゃうわ!」と返して………
この断絶は、そもそも互いの人生観というか世界観の違いなので、割かしどうしようもないものです。でもお互い自分の方が正しいと思ってるので「興奮」の人は「快楽」の人に「自分を甘やかしとる!許せん!プンスカo(`ω´*)oプンスカ」と怒り、「快楽」の人は「興奮」の人に「うざいわ!ほっとけ!(’A`)」と怒るわけですね。
でも、どっちも本質的には『こっちの方が幸せになれる』つう宗教に過ぎないんで、信仰が違うということを認識しないといけないんですな。向こうの宗教を信仰している人に自分の神様を崇めさせようとしちゃいけないんですな。
この信仰も結構、人によって時々行ったり来たりしやすいもんですけど。


なんで、最初の話に戻って、福本伸行的世界観に生きている人が「(脳内に)エクソダス、するかい?」な人をシメてきたときどう対処しようかというと、宗教の勧誘みたいなもんですから、向こうも善意(と意地と体面)でやってるわけですし、拒絶する態度をとるとますます付け込まれるので、まあ「宗教が違う」ということを素直伝えるしかないのではないでしょうか…


でも他人をシメる人って、口では自分の価値観をちゃんと相対化してるように言うけど、心の中では絶対認めてないんで、そこがなあ…(’A`)
もう、そんなことよりオナニーして寝よ。

オレは抗った…!
屈服せず……
抗った……!
戦った……!
戦ったはずだ………!
…………
だから…
なれただろ……?
あの夏の日のアリに…!
(黒沢 福本伸行最強伝説黒沢」)

「見てみ。燃えたらなくなるもんやんか。
あんた、こんなもんに何で一生けんめいに。
死ぬやも殺すやもしれんほど何をそんなに。
何でせんでええ苦をするの。
今がいややったら逃げたらええやんか。」
(かの子 西原理恵子ぼくんち」)

わしも天地がすぎゆかぬうちに「幸福の甘き香り」がかぎたい…
ねずみ男 水木しげる「幸福の甘き香り」)

*1:詳しくはこっちで <http://www.1101.com/petit-cre/>

中野ゼロ視聴覚ホールは21時45分で閉まっちゃうのよ

以前のライブのレポを書いたとき

かーず 『アニメ会さんのライブレポなどでリンクさせていただいている、かーずSPのかーずと申します。お世話になっております。

僕もアニメ会さんのライブには割りと足を運んでいるのですが、あの場にはderorinmanさんもいらっしゃったのですね。
毎回のderorinmanさんのレポート楽しみでして、ぜひ一度お会いしたかったです、次回のライブなどに参加される時にはぜひお話しましょう。』


derorinman 『>なめ鯨さん
>あ、そこは大丈夫です。傷ついたわけではないのでご安心ください。
ああ、なら良かったです…
今度お会いするようなことがありましたら、是非よろしくおねがいします。相変わらずキョドってると思いますが。
>そもそも私はderorinmanさんの書く文章好きですし、あの流れは(こういう書き方は、実際に体験したderorinmanさんに対して失礼かもしれませんが)とても面白かったです。
いやー、あの書き方だと、アニメ会のライブや、誘ってもらったこと自体が辛かった、みたいな受け取られ方されてしまうかなと思ったもんで。
逆に「嬉しすぎて自滅してしまった」つうことですね。ってやっぱダメだこれ!(’A`)
なんにせよ誤解もされてないようですし、楽しんで頂けたようなら幸いです。
>私のブログからリンクを張っても良いでしょうか? 
全然構いませんよ。というかこちらこそよろしくお願いしますです。考えてみればこういう事を言われるのも初めてのような。

>かーずさん
なんと、かーずさんからコメント頂けるとは!
こちらこそ毎度毎度お世話になっております。いつも有り難く思っています。
>ぜひ一度お会いしたかったです、次回のライブなどに参加される時にはぜひお話しましょう。
ほ、本当ですか!
こんなんでよろしければ、是非ともお願いします。
1月のライブには確実に行けると思うので、そのときにでもお話出来たら嬉しいです。』

なんつうやり取りがあったのですが。
考えてみると、どこで会うとかちゃんと約束もせず、かーずさんの容姿もさっぱり分からんので、当日になって「どうやって会えばいいんだ!?」と物凄く基本的なことに気がつきました。
「まあ何とかなるさ」とか考えてたら当然会えなかったわけなんですが、ああいう場合どうすればよかったんだろか…普通はあれか、みんなメールでやりとりしてるのかな(;´Д`)
なめ鯨さんとかも居たんだろうと思うと、色々な人に会えるチャンスをぶっ潰してしまったわけで、「これがコミュニケーション能力がないってことかー」と改めて感じました。コミュ能力以前にただ頭悪いだけな気もしますが。
絶望した!属性的な魅力に全くつながらない自分のフラグクラッシャーっぷりに絶望した!
ということでかーずさんにおかれましては、もしこのブログを見てらっしゃるようでしたら、平身低頭にお詫び申し上げますですハイ(;´Д`)
お詫び文こそメールでだせば良いじゃんとか思うかもしれません。
でも向こうがすっかり忘れてたりして俺だけ舞い上がってたら恥ずかしいんだよ!('A`)


あ、これがコミュニケーション能力がないってことかー(;´Д`)