アンパンマンができるまで その1

なんのために生まれて
何をして生きるのか


これはアンパンマンのテーマソングであり、ぼくの人生のテーマソングである。
やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

意外にやなせたかし先生の黒っぷりを知らない人が多いようなので、先生についての話でも書こうと思います。
やなせ先生の出身地は高知県香北町の朴ノ木。今の香美市にあります。
先生の家庭環境は中々複雑です。
父は朝日新聞の特派記者で、先生が物心つくかつかぬかという頃に一人中国で客死。
体の弱い弟は親戚の伯父の元に養子として引き取られ、幼い頃は未亡人の母と父方の祖母との三人暮らし。
小さい頃から「弟さんはお母さん似でハンサムで快活なのに、お兄さんはお父さん似でおとなしいけど器量が悪いのね」と何度となく言われ、長じてからも弟はイケメンで柔道二段のスポーツマンで性格も良く、京都帝国大学に進学するほどの出来のよさ。一方自分は不器量で暗くてシャイでコンプレックスの強い性格になった、と本人談。
また母は生活のために様々な習い事に出る活発な女性だったけれど、時にヒステリーを起こしたり、しつけのときにはやなせ少年を物差しで叩いたりなどしていたとか。また派手好きで濃い化粧をし、いつも何人かの男性が周りにいるような生活。昔の地方ですから、そういう母の悪口を色々な人が口にします。母が好きなやなせ少年は、その悪口がとても嫌だったといいます。
留守がちな母に代わり子の面倒をみた祖母は、やなせ少年を溺愛し過保護に育て、「この世で信用できるのはお前と神様だけだ」と言うほどでした。そのため、生活は貧しいくせに世間知らずのお坊ちゃんに育ってしまったといいます。
そして小学二年のときに母が再婚し、弟を養子に出した伯父の家に自分も引き取られます。
弟はあくまで養子だから養父母と一緒に奥座敷で寝るけれど、自分はあくまで居候だから、歳の離れた叔父の住む書生部屋に寝泊りです。弟とは容姿でも能力でも待遇でも差をつけられる日々。
そんなハードな状況でもへこたれることなく、呑気に暮らしていたやなせ少年。しかし思春期になると色々な問題が出てきます。
学校の勉強についていけなかったり、勉強しようと思っても二次性徴により性欲をもてあまし、皮膚が弱いのでニキビだけでなくハゼの木や机のニスにやられて全身包帯巻きになり、さらにはインキンタムシに水虫までやって、少しもいいところが無かったとか。
理由も無くひたすら泣きじゃくったり、自殺願望が高まって線路に寝転んだり(列車が近づくと怖くなって逃げた)、精神的にもかなり不安定だったそうです。
そんな少年でも恋に落ち、女学生の一人に一目ぼれ。初恋の彼女に変名で恋文を送ると、彼女の父親から「今度こんなことをしたら学校へ通告する」と書かれた手紙が返ってきて、あえなく初恋も散り…ああ、先生…(’A`)
さて、美術、特に叙情画が好きだったやなせ少年は、東京高等工芸学校(現千葉大)に入学。東京は二・二六事件が起こるような空気へと変わっていきましたが、先生は銀座で遊んだり電通のバイトをして、大正デモクラシーの中で青春をすごしました。
卒業したら、製薬会社の宣伝部の社員としてイラストを描いたりして働いてましたが、いよいよ軍隊に行く日がやってきました。


水木しげる先生もそうですが、やなせたかし先生もビンタでしごかれまくったのをそこそこ根に持っているようで、どの自伝を読んでも少なからずしごかれた話が出てきます。しかし軍隊生活も二年目くらいになると、身体も丈夫になり、慣れてきたそうです。
現役もようやく終わるかという頃、日中戦争が勃発し、やなせ先生は中国へ派遣されます。暗号班で聯隊本部づきだったやなせ先生も、目の前で何人かに死なれたそうです。
とは言えど、基本的に後方の部隊だったので大きな戦闘に巻き込まれることもなかったそうです。紙芝居を作って現地の子供たち相手に宣撫班の真似事をしてみたり、軽度のマラリアに掛かったり、上海決戦に備えてるうちに敗戦の詔勅がだされ、戦争が終わってしまったそうです。
復員してみると、弟さんは特攻隊で亡くなっていました。
先生自身としては、特別大きな戦闘に参加することもなく、空白地帯をウロウロしてただけの軍隊生活に、ある種の負い目を感じていたそうです。

内地に残っていた銃後の国民のほうがよほどつらい目を見ている。たとえ、戦火に逢わなかったとしても飢えに苦しんでいる。
比較すれば、ぼくは甘い生活をしていた。

やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)

戦争の経験が、先生に「飢え」に対する恐怖と、そこから救ってくれることの偉大さを思い知らせたそうです。そしてこれが、後年の「アンパンマン」へと大きく影響します。

食べられないというのは、ものすごくきついですよ。飢えれば人肉だって食べようという気持ちになるんだから。このごろ、子供に食事を与えず、餓死させたなんていうニュースがありますね。これはもう、きついと思います。今は、みんな食べ物が無限にあると思っているけど、実際はそうじゃない。特に日本は食べ物を輸入しているんですから。
やなせたかし 「時代の証言者⑧」読売新聞社

ぼくは優れた知性の人間ではない。何をやらせても中くらいで、むつかしいことは理解できない。子供の時から忠君愛異国の思想で育てられ、天皇は神で、日本の戦争は聖戦で、正義の戦いと言われればその通りと思っていた。正義のために戦うのだから生命を捨てるのも仕方がないと思った。
しかし、正義のための戦いなんてどこにもないのだ。
正義は或る日突然逆転する。
正義は信じがたい。
ぼくは骨身に徹してこのことを知った。これが戦後のぼくの思想の根本になる。
逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点となるのだが、まだアンパンマンは影もかたちもない。

やなせたかし 「アンパンマンの遺書」)


さて、ようやくやなせ先生が復員してくると、仕事といえば屑屋くらいしかなかったのですが、意を決して高知新聞の採用試験を受けると見事合格。「月刊高知」という雑誌の記者になりました。
そこで小松記者という、先生の亡き奥様と出会われるのですが、そのあたりのエピソードが…「それ何てエロゲ?」みたいな超展開ばかりでして…少々書くのが躊躇われます。とりあえず山場だけ紹介しておきましょう。

……駅のそばだったがひどく暗かった。遠雷が鳴っていた。小松記者は、「もっと雷が鳴ればいい」と言った。その次の言葉は、低くてちょっと聞こえにくかった。
「やなせさんの赤ちゃんが生みたい」
「え?」
なるほど、これが殺し文句か。必殺のひと言でたちまち心は燃え上がり、ぼくは小松記者を抱きしめて、唇を重ねた。腕の中でぐったりと彼女の身体が重くなって、全身のちからが抜けていった。遠く紫色の閃光が、ギザギザに暗夜のカーテンを切り裂くのが見えた。そのとき、ぼくはこの人と結婚しようと決心した。
どうも、この辺は書いていて恥ずかしい。それに、ぼくはラブシーンが不得手だ。

それ
なんて


人生の伴侶は得られましたが、戦後のインフレ続く頃、人生の行く先はまだまだ不透明なことばかり。
やなせ先生の漫画家人生は、まだスタートラインにもたっていませんでした。


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