ヤンキーとオタク

ウロン、日本人はオタクとヤンキーに大別できると思うの。一見普通の人でもかならずどっちか寄りの指向があります。もちろん一見オタクに見えて根はヤンキーちゅ場合もあればその逆もあり得るね。たとえばこの21世紀に下町っ子を気取るようなオッサンなんかは気質的に完全にヤンキーだし、ひと頃流行ったチーマーさんやコギャルさんなんてのもオシャレちゅ皮をかぶってやっと認知されたただのヤンキーです。そう、実は日本人は数の面で見ればヤンキーの方が圧倒的大多数で、しかもオタクとは切っても切れない間柄、ちゅか一枚の紙の裏表なんじゃないかニャーと、ウロン思うですヨ。
(ウロンのひとりごと http://picnic.to/~zerry/uronlog5.html太字は原文ママ

ぼくの住んでるところは田舎なもんですから、近所には無駄に駐車場の広いパチンコ屋がいっぱいあるわけですよ。
何時見に行ってもそこにはほぼ確実にDQN御用達のアホな改造したワンボックスカーがとまっています。
ちょいと中を覗き込んでみますと、五・六台に一台くらいは、ミッキーとかマイメロとかのヌイグルミや小物なんかが置かれてたりします。別にパチンコ屋に止まってる車だけでなく、DQNというかヤンキー*1の乗ってる車の何割かには結構な割合でファンシーなアイテムが搭載されていたりするのを見かけます。
偶々地元にそんな連中が多いだけかと思いきや、大体中途半端な地方都市とかにいくと似たような状況になってる車を見かけたりします。
 
「ヤンキーがメルヘンチックなものを好む」
という逆説的な状況は長らく疑問の的でした。
しかし、自分は喪オタクで向こうはDQNなわけでして、日々出来るだけ異人種間接触を避けている自分にはその内実を知る機会などというのも全くありません。まさにウロンちゃんがいうところの

ウロン、ふっと思ったんだけど、これだけネットの利用が広まっているってのに、オタクとは何ぞやを語る人は馬の小便程いてもヤンキーとは何ぞやを語る人がほとんどいないんよね。これ、ヤンキー本人は語る言葉を持たないにいろいろ語りたがる人はヤンキーの内情なんか知らないのが原因なんじゃないか尿。一応、数少ないけどヤンキーについての学術的考察みたいのはあるこたあるんだけど、これがこのー、本気なのか笑わせようとしてるのかどっちよ ちゅよなものが多くて何ともはや。
(ウロンのひとりごと)

ということでしたので、「とんでもない大ボラぶっこいたら何だし、まあそんなこともあるだろう」と大して深く考えずにいました。
ですが、柳下先生と戸梶圭太さんの対談がのってる「実録!マーダー・ウォッチャー (2005summer issue) (洋泉社MOOK)」を読んでから少し考えますと、ヤンキーを構成する成分の何割かはオタク分で出来てるとか思ったりしました。

戸梶 (千葉でDQNが発作的に起こしてしまった殺人事件について)それとこうした事件で気になることは、ヤンキーの持つ独特のセンスですよね。奇妙にファンシーというか。
柳下 千葉といえば東京ディズニーランドもありますが。
戸梶 ヤンキー、ディズニーランドが好きですよね(笑)。あのヤンキー独特の美学、僕は本当に苦手なんですよ。
でも彼らがそういったファンシー志向に走るのは、自分が置かれたどうしようもない状況を、ディズニーランドに代表される夢の世界が一瞬でも忘れさせてくれるからなんでしょうね。あそこって夢の国じゃないですか。そこで一瞬でも天国を見て遊んでくるんだけれど、そこから出て駐車場に向かって歩いているとどんどん現実のツラい世界に帰っていってしまう。だから身の回りファンシーなグッズを置いて武装するんでしょうね。良く彼らの住んでるアパートの出窓や改造自動車の後ろの座席にUFOキャッチャーでとったようなぬいぐるみが置いてあるじゃないですか。
柳下 なんかアメリカのホワイト・トラッシュ的っていうか。トレーラーハウスで暮らしているような人たちも妙にファンシーな安物でデコレーションしたりしますよね。大都市のベッドタウンだったり衛星都市なんかだったりするところも含めて、街が荒れて何もないところ、さっき言ったみたいなカラオケとパチンコしかないところですよね。
柳下毅一郎×戸梶圭太 「実録!マーダー・ウォッチャー (2005summer issue)」)

これは「激安犯罪*2」についての対談話でして、中には地方差別的な部分もないではないのですが、それも含めて、ヤンキーのあり方としてあながち間違ってない推察だと思います。
日本のホワイトトラッシュ(貧乏白人)的存在…顔も悪けりゃ頭も悪い、金もなければ将来の希望も何もない、ただ日々をその土地で閉塞していくしかないというような層…として代表的なのが地方のヤンキー達で、彼ら彼女らが極端に走ったところに殺人などの凶悪な(同時に行き当たりばったりで安っちい)犯罪を犯してしまっていると。
実際の引き金にはならないでしょうが、一つの背景としてそういうのは有るかも知れないなあと、日々さっぱり栄えていない国道を眺めている身として実感する次第です。まあそれはどうでも良いのですが。
そういう満たされない感情が暴力的・性的な乱れとして表現されてるのが今の地方なのではないか。なんて話も良く聞きはしますが、実際ヤンキーとかDQNて呼ばれるような人って、都市部においてもそう酷く変わるもんでないと思うんですよ。渋谷とかにいたりするようなDQNも、その殆どが東京に適応できた(と思ってる)だけの田舎者ですから、東京のDQNも田舎のDQNと根本的性質としては同じというか。まあこの辺は具体的な根拠もないですけどね。
都市部はまだプライバシーとか将来のなんとかなりそう感とかが保たれては居ますが、実際どこ行ってもそういうヤンキーはゆくゆくは行き詰るわけですし。話がずれましたね。
いずれにせよ、そういったヤンキーやDQNたちのもつ閉塞感が、彼らのファンシーなセンスを生み出してるのではないかというのは面白い考察だと思います。
別に彼ら自身は、意識してそういうファンシーなものを集めようとしているわけではないと思うんですよ。彼女が好きだったから車に乗っけてるとか、たまたまパチ屋で玉が余ったから、ウケ狙いでぬいぐるみを手に入れてみたとか、そういうきっかけだったかも知れません。
なんにせよ、結局はそういうファンシーなものを身の回りにおいてしまって、日常の一部に組み入れていることは確かです。
これを戸梶さんは「現実逃避の依り代としてのファンシーなもの」と捉えているのですね。
しかし言い換えるとですね、これは電波男理論で言うところの鬼畜化(この場合準鬼畜化というか、要するにDQN化)してゆく精神の安定を量ろうと、夢想的・二次元的なもの、ファンシーでメルヘンなものを無意識のうちに日常に組み入れ、現実世界への殺伐とした感情を中和しようとする行為…ヤンキーにおける萌えでの救済実験ともいえるのではないでしょうか。


ある意味当然っちゃ当然なのですが、DQNもまた、萌えオタクと同じように、ダメ人間の適応の一つのあり方なわけですよ。
そうならば、彼らもまた適応方法の一つとして、オタク的なものを選択しうるのではないかと思うんですね。実際、彼らのもつファンシー嗜好は、ヤンキーにおけるオタク的性質といえるわけですし。
わかりやすく言いますと、ヤンキーとオタクというのは実は結構近しい存在で、ヤンキーはオタクになり得るのではないかと思うのです。
竹熊先生も電波大戦で言ってましたが、元々誰でも小さいころはオタクなわけですよ。殆どの場合、DQNもケバいギャルも誰だって幼児の段階ではアニメとかマンガとか好きなわけですよ。思春期前後で「異性をとるか、オタクをとるか」というような話になったときに、大概の人は色気づくほうに傾くわけで、その中でもオタクからの揺り戻しが大きすぎる人DQNとか呼ばれるような類の人であったりするわけですな。
しかし、このような道筋をたどるDQNやヤンキーも、どこかしらオタク臭い部分は持ち合わせていたりします。ただレベルが厨オタとかいわれる段階に留まりつづけるだけで。例えば少年マガジンの「特攻の拓」とか「カメレオン」とかあの辺のものを読んでみますと、「ヤンキーは同時にある程度オタクでもある」っつうのがなんとなく分かるというか*3。いや、特攻の拓に出てくるような不良はニホンオオカミと同じくらい確実にこの世に存在してないんですけど、それなりに長寿漫画だったことから考えても、フィクションとしては受け入れられてたのかなと。"ビキィッ!!"
当然、そういう傾向も人によるとは思いますが、決してオタク的な性質をもつヤンキーも少ないわけではないと思うんですよね。萌え系みたいなあからさまにオタク的なのは遠ざけるが、言動の端々がオタク臭いというか。
上述の通り、ヤンキーはモテのほうに過剰適応した存在でもあるので、世の中の空気が変わって「オタク イズ ビューティフル」というチャンコ増田もビックリな価値観が支配する社会になれば、彼らもオタクになりうるわけですよ。
もしヤンキーをオタクに出来れば、ヤンキーによって苦しめられる人も、ヤンキー自身も救われるようになるのではないでしょうか。
まあそんな社会ありえんかも知れんけどね。


仮にヤンキーがオタク的な性向を持っているとして、問題はヤンキーの想像力がオタクよりも遥かに低いことにあるわけですよ。
「先々のことについて頭が働かない」「目の前の存在の背景について思いを巡らさない」というのがDQNの一番問題なことなわけですから。
中長期の未来について具体的な予測が立たないから、やがて自分の首をしめるようなアンモラルなことを安易にしてしまうし、目の前の人の背負うもの、相手も同じ人間だという想像がないから、平気で人を虐めたりするわけですし。
しかしこのヤンキーの「想像力の低さ」ってのが、いわゆる「オタクの動物化」ってやつに通ずるのではないかと思います。あれも「物事の背景に興味を示さずに、快楽を示すシンボルに即物的な反応を示すだけ」っつう話ですし。


とすると、最近のオタクが薄くなったとか動物化だとか言われますが、それは要するに「オタクがヤンキー化してる」っつうことにもなるんじゃないかなと。
翻ってウロンちゃんの話をまた引用しますと、

んじゃ、一般にヤンキーの真逆と思われがちなオタクちゅものは何なのか、ちゅと、これも別形態のヤンキーなんじゃないかと、言ってて自分でも半信半疑ながら一回思いついちゃうと思い当たるフシがけっこうあったりして。ただこの、ヤンキー的性質とは別枠だか同じ場所だかはわかんないけど、とにかくオタク因子ちゅものもあるようには思えて、その発現具合によってはヤンキー的性質を軽減もしくは凌駕することもあるんじゃないか。さらにゆうと、ヤンキー的性質のオタク的ふるまいオタク因子による純オタク活動は、いっしょくたに見られがちでも実は別物なんじゃないか。

んじゃそのオタク因子ちゅのが何やねんて言われると、わかんないんだけどもエヘヘ。あるように思えるちゅかあると便利ちゅか。ずいぶん格は落ちるけれども宇宙項みたいなものだと。それは良く言いすぎ
(ウロンのひとりごと)

という風に書いてありまして、確かにアニメとかは見てるオタクではあるけれど、言動的に完璧DQNな人とかいますね。
そういう「ヤンキー的性質のオタク的ふるまい」をする人が増えて、「オタク因子による純オタク活動」をする人が減っている想像力が低下したオタクが増えているというのが、今オタクの抱える問題なんではないかなと。
それはオタキング騒動で皆が危惧したような、「共同意識をもつオタクの喪失」っつう「オタクが死ぬ状況」につながるんではないかな、とかまた思いつきで言ってみたりするのですが。


かなりゴチャゴチャしてきたのでこの辺りでまとめますと、以下のようになります。

  • ヤンキーには独自のファンシーなセンスがある。それはヤンキーのオタク的性質によって行なわれる「ヤンキー式・二次元による救済」である。
  • ヤンキーのファンシー嗜好はヤンキーのオタク性の表れ。ヤンキーにはオタク的因子があり、もしかしたらヤンキーもオタクになりうるかも知れない。
  • でも、それは純粋なオタクのオタク的行動とは、想像力の点などで異なる。
  • しかしオタクもまたヤンキー化しており、オタク因子による純オタク活動でなく、ヤンキー的性質によるオタク活動を行なう人が増えているのでは。
  • ヤンキーもオタクも「想像力の欠如」というところに問題があって、それをどうするかを考えなくちゃいけないんじゃないか。

つうことで、オタクの問題はもしかしたらヤンキーやDQNと呼ばれる人たちと同根の問題で、どちらかを解決するにはどちらにも思考を巡らさなければいけないのではないか、と思います。

ちゅことでオタクちゃんの皆様におかれましてもヤンキーの文化を研究するのは己を振り返る上でも有益なのではないでしょか。とりあえず参考文献として雑誌チャンプロードティーンズロードは一度スミからスミまで熟読しておくように。
(ウロンのひとりごと)

*1:以下、ヤンキー≒DQNという風に見てくださるとありがたい。

*2:安直でアンモラルな犯罪

*3:手元にないんで「ココからそういうことがいえます」みたいには言えないのですが。