みんなオタクになれ

…趣味ならば選ぶことも諦めることも新たに身につけることも可能だろう。だが、オタクは趣味ではない。オタクは生き方なのである。一度オタクとして生きることを選んだならば、もはや違う生き方は存在しない。そういう人間に対して「オタクをやめろ」というのは死ねというのと同じことである。だが、非オタがオタクをただの趣味だと思っているかぎり、それは理解してもらえないだろう。そして「オタクとわたしとどっちが大事なの?」と無邪気な刃を向け続ける。
柳下毅一郎 本田透電波大戦」あとがきより)

ということで今回も「検証・若者の変貌―失われた10年の後に」の内容をまとめていきたいと思います。しかし毎度毎度ねえ、何かしらの本を取り上げてでしかモノ語れませんで、お前はそうでなきゃ考えられねえのかっつうアレでねえホント…('A`)


さて、今回はまず「音楽」について。なんで音楽が取り上げられるかと言うと、少なくとも02年次の調査においては、若者の興味のあることっつうんが「一位:友達関係 二位:将来のこと 三位:音楽」という順位になるもんで、それなら若者の生活と音楽と言うものが密接な関わりを持つまさに「NO music NO life」的な状況にあるっつうことが調査から言えるそうなんですわ。
さて、これをただの音楽論とも読めるのですが、実際には「若者のオタク化について」を、最も広く親しまれている音楽というジャンルに例をとって話しているっつう感じですかね。音楽オタの話と思ってもらえば、これをその他のOOオタに当てはめて考えてみることも出来るかと思います。


さて、若者にとっての音楽の状況としてよく言われるのは、好きになるジャンルやミュージシャンが多岐にわたることで、歌謡曲からニューミュージックへみたいな一つの大きなムーブメントというものが見えにくくなってる「好みの細分化」と、細分化と同時に音楽に対する価値の重み付けが無く、関与度の薄いものになっている「価値の平準化」の指摘がある。

音楽はどの作品文化と比べてもダントツの人気を持っている。若者層の殆どが音楽を好んで聴取しているものであり、六割弱の若者が音楽は自分のライフスタイルだと思い、半数弱の若者は特定の音楽についての知識を有しているともされる。つまり、音楽というジャンルにおいては、半分近くがライトな音楽好きで、残りの半分が音楽オタクとでもいうような状況なのだ。
また13.7%と、七人に一人の割合で「音楽を創るのが好きだ」という設問に肯定的に回答しており、受けてが送り手になりやすい状況であると言える。
また、音楽の消費行動においては、レンタル店の利用が上昇傾向にある他は、CDの購入も、複製メディアへの編集(コピーとかMP3とか)、ライブへの参加にカラオケの利用などなどは軒並み減少傾向にある。
このような状況から、聴取に金をかけない音楽消費のスタイルが広く一般化することで、音楽産業が喧伝するプラスのセールスイメージと音楽団体の言うマイナスの動向――つまり、NO music NO lifeと、CDが売れない時代――が併存する事態が見える。


アニメや漫画などのジャンルにおいては、これらの比率がそれぞれ変動することもあるかと思いますが、大体においてあてはまらなくもない感じです。
では、作品の細分化だのといった話ではどうでしょうか。


好きなミュージシャン名から手作業でジャンルわけしたところ、ロックとポップス、R&Bなどに主な注目が集まり、やや離れてユーロビート系からパンク・ヴィジュアル・ハードロック・ラップの順に人気が集まっている。が、大概は「JPOP」とくくれるものが多く人気を集めている。
音楽に対するコミットメントの尺度について、どのような若者が強く関わっているかを調べると、年齢では21〜22歳がもっとも関わりの強いヘビー層であり、そのあたりをピークに歳を追うごとにライトな関わり方に変化していく。またヘビー層における男性の割合の高さが目立っており、この層のみ男性が女性をリードしている。また職業においては学生や生徒(高校生以下)にヘビー層が多く、時間にゆとりのある若者ほど音楽への関わりは強くなる傾向にある。つまり、若くてヒマな男ほどオタク化しやすい傾向にあるのだ。
特にヘビー層について述べていくと、音楽に対する行動においてもヘビー層は突出している。ネットや雑誌やラジオ、クラブやフリーペーパーや友人たちなどの様々な場所からの情報収集を行なう。が、テレビやカラオケで情報を仕入れることが、ミドル層やライト層よりも少ない。番人向けのメディアでは充分な情報は得られないのだ。またCD購入の割合や複製メディアへの編集(コピー)もこの層が多い。平均的な購入代金は月4000円以上になる。
また音楽に対する姿勢も、多くのライト層やミドル層にとって音楽は「雰囲気づくり」や「自分を励ましてくれる」ものであるというのに対し、ヘビー層は「なくてはならない」「自分を表現する」もの、自分の生活に直接影響を与えるものであると捉えている。
またヘビー層は好きな音楽ジャンルもマイナーなものを好みがちで、また万人向けのミュージシャン名を記入することを敬遠するプライドなども見られる。また特にこの層の洋楽を好む傾向は突出しており、極端に言うと「洋楽を聞く者こそが音楽を分かってる者だ」とでも言うような「洋楽エリート」の自意識が見られる。特にヘビー層はロック系などの「敷居の高い音楽」を好み、ライト層の好むポップスはあまり受容しない。*1


とまあ、以上をまとめると音楽オタクになればなるほど、音楽の情報を積極的に集め、マイナー系を好み、音楽に自己のアイデンティティをもたせる傾向にある、ということだそうですわ。
あたりまえっちゃあたりまえの話ではあるんですが、ではそれが当人の自意識のありかたとどういう関わりがあるのか?というと…


音楽に強く関わる若者ほど「自分には自分らしさがある」「どんな場面でも自分を貫くことが大切」という肯定的な意見をする傾向にある。これは、音楽への関心の強さが当人のアイデンティティを構成する重要なファクターになってると考えられる。
…ただ、これは音楽という作品文化自体が社会にある程度肯定的に認識されていために「音楽に強い」ことが「自分がある」ということに繋がっている部分があるので。実際その他の作品文化の選好とアイデンティティの関係は、演劇やアートなどのハイカルチャーが高い相関を示しているが、その他の例は検証されていない。


っつうことで、社会的に割合悪印象で語られるオタク文化が好きな人が「自分らしさがある」とは思えても、それを貫くべきだという自己肯定的な意識を持てているかというと…むしろ逆な気もしますな。必ずしもオタク文化においても同じことが言えるとは思えないです。どちらかというと、俺はオタクだという自意識を持ちつつも、認められがたいという劣等感の同居した人間になりやすいというか。


この論集の編者の浅野はこうまとめている。

音楽への強い関わりが、そうでなければ漠然としたイメージに過ぎない「自分らしさ」にはっきりとした輪郭を与えているのではないかと推測されるのである。
(中略)
考えてみると、このようなコミットメントは何も音楽に限られるものではあるまい。ファッション、車、映画、文学、マンガ、アニメなどなど、なんであれそこに強く深い関わりがあるなら「自分らしさ」はある程度輪郭を獲得しうる。大切なのはおそらく対象ではなく関わりの強さと深さなのである。
浅野智彦 「検証・若者の変貌」)

人生の基準となる諸所の指標の多く(慎ましい家庭を持って真面目に働いていけば幸せになれる、とかそんなん)が効力を失った昨今の若者は、「自分らしさ」を物事の対処における基準軸とする戦略をとるようになった。流動する社会に対し「でも俺はこうだから」という形で対処しようというのだ。また、それは同時に「自分らしさ」を捜し求めるべきだという圧力を若者にかけることになる。
何をもって「自分らしさ」と言うのかというと、それこそが、上にあるようなコミットメントの深い文化を基準点に考えることのようだ。


さて、それを今までの「多元的自己」「状況対応的なコミュニケーション」などと重ね合わせると、「自分らしさを中心にものを考えながら状況に合わせてキャラを変える」という軽く精神分裂的な人間像が見えるかもしれないが、それを肯定的に捉えなおしてみると…

このような苦境が生じるのは、「自分らしさ」を特定のかつ単一の「何か」として考えているためではないか。「オンリーワン」を求めようとする姿勢は、それが「かけがえのない」自分ではなく、「たった一つの」自分を求めるときに板ばさみの苦境を招く。逆に「かげがえのなさ」をそのような単一性から自由なものとして捉えなおすなら、論理的には板ばさみに陥ることなく「自分らしさ」を追求することが出来るだろう。
(中略)
自分らしさを基準にものを考え、それでいて自分らしさを多元的でありうるものとして見る、そういう姿勢を「開かれた自己準拠」と呼んでみたい。そしてこのスタイルの中に、若者達が今日の社会を生き延びていくために有用な手がかりを見出すことができるように思うのである。
浅野智彦 「検証・若者の変貌」)

その「自分らしさ」とは、上で述べるような「コミットメントの深い文化を考えの軸とすること」であり、かつ「その軸が複数であること」が肝心なのだ。そのような複数の軸があることで初めて、こうありたい、こうしたいというような欲求…綺麗な言葉で言うと「夢」を生み出し、それを求めていく過程で、他者との深い関わりが築けていくのではないか


というのが本書の大体の内容なのですが、一言で言うと
「若いもんは、濃いぃオタクになることで救われるようになるんだよ!ド━(゚Д゚)━ ン !!!」
ということなのです!
嘘くさくない!嘘くさくない!


ちょっと書ききれなかったところも含めてまとめて見ますよ。


自意識が多元化してみんな仮面をつけた腹黒人間になってくよ

それはコミュニケーション環境の難易度上がってることと関係してるよ

そういうコミュニケーションは繋がりを求める馴れ合い関係がある一方で排他的だよ

だもんで、腹黒くなっても難易度高いコミュニケーションが嫌で逃げようとする人もいるよ

そういう人は「でも素の自分が愛されたい」って悩むよ

んじゃあどうやってキャラぶれして腹黒な自分と他人とを折り合いつけていきましょうかや?

オタクになれ!でも薄いオタクじゃダメだよ。

濃いオタクになることで、演技じゃない自分の考えの軸が出来るよ。でも、例えばアニオタとかサカオタとかいう風に一つのところに固まっちゃうとコミュニケーション障害になっちゃうかもだよもん。

複数のことに対してオタク的になっていくと、仮面じゃなくて素顔がいっぱい増えることになるよ。

素顔が複数になえれば、あっちこっちで違う顔したりしても悩まずハッピーに人間関係スムーズに行くよ。(アントニオ猪木化)

また色々なオタク活動を行なってく過程でいろんな人と関わってくことになるだろうから、そういう人たちのなかに理解し合える関係が築ける場合もあるかも知れないよ。

つまり、みんな荒俣宏唐沢俊一みたくなれば万事解決なんだよ!

ということです!
なるほど!確かになんかもう帝都物語さえ脳内にあれば人間関係がどうこうで悩むことも無さそうです。
上手くいけばそれで食ってけるし、そうでなくともアニメもマンガも帝都物語も動植物の生態も人体構造も神話も天体も各都道府県の歴史についてもなんもかんも知ってれば、明石家さんまほど上手くトークが出来なくても、いや例えドモリ症だったとしても、誰とでもなにかしら充分なコミュニケーションはとれそうな気はします。

この席で、荒俣君はのっけから独得の知を披露した。ヒジョーに新鮮だった。それだけではなく、ときどき出会って喋る話が、メチャクチャおもしろい。どんな話にも乗ってくるし、どんな話にも評価のレベルがついている。話がそれなりにおもしろい人というのはいくらでもいるのだが、それぞれの話の内容に評価を加えつつ話せる数は、めっぽう少ないものなのだ。それが荒俣君にあっては、内容と評価の同時的運動が図抜けていた。
松岡正剛の千夜千冊

同性関係はそれでクリアできても、異性関係はどうなるねん、という話なのですが、流行(になる予定)の腹黒萌えは腹黒人間ばっかりな現実に適応しようとして編み出されてきた萌えなのですから、極めれば2次元の腹黒キャラだけでなく、3次元の腹黒キャラにも萌えられるようになります。そうすれば、少なくとも自分のなかの「女はおっかねえ!」という意識は改善されるのではないでしょうか!
僕自身は今のところそうした兆候は全く見られませんが!
いえ、別に三次元を愛せなくても、というかそもそも愛されなくても、二次元で萌えてりゃ充分な肉体になっているので問題無しであります。
また、先達の荒俣先生がこう仰ってます。

竹熊 そういえば昔、八〇年代の『ポパイ』で荒俣宏先生の恋愛相談が載ってて、あれは凄かった。「僕は24歳なんですけど彼女がいません、どうしたらいいんでしょうか?」という相談があって、それに対する荒俣先生の回答が「24歳で彼女がいないのは当たり前です、そんなのは40歳になってから心配すればよろしい」と(笑)。要するに彼女がいないのなんか当たり前だからm悩むほうがおかしいと。
竹熊健太郎 本田透電波男」)


外見がどうこういう話は、書くと長くなりそうだからカットだ!
そうだ、未だ喪の魂をもつことで苦しむ人間がいるのは、皆がまだまだヌルイオタクだからなのだ!もっともっとオタク道に邁進して荒俣宏並のオタクになれば、みんな救われるんだよ!


ということで何回かに渡ってこの本の紹介(にかこつけたオタク話)をしてきましたが、本当は今回も、興味が多岐に渡るオタク化の兆候がオタキングの言うオタクの希薄化・同族意識の欠如としてとられるような形で現れているっつうことかなとかなんとか書こうと思ってたのに、なぜか「みんなで荒俣宏を目指そう」という話になってしまいました。
ただ、問題として「誰しもが荒俣宏にはなれない、というか殆どの人間は荒俣宏にはなれない」という一番肝心な事実があるのですが…








修行するぞ修行するぞ!('A`)

一方「コレクター」と呼ばれる荒俣宏さんのように、データを溜め込んでそれを吐き出す博物学者として成功している方もいますが、彼の場合はコレクションを俯瞰で見ることが出来る洞察力があったから成功したのです。普通のコレクターは、データを集めたことで満足して、ほとんどろくな物書きになっていません。たとえば、郷土研究家が必ず司馬遼太郎のような文章が書けるか、といえば必ずしもそうとは言えないのと同じことです。
富野由悠季 「富野に訊け!」)

まーそーゆー面もあるかも知れねーな一部にはっつうことで一つよろしく。

*1:ちょっと興味深い部分を引用『ロックとポッポスは、ユースカルチャーとしてのポピュラー音楽史のなかで、しばしば対立軸として表彰されてきた歴史を持つ。その対立とは「最前線の和歌も飲む音楽であるロック/万人向けのポップス」「反体制や前衛などの観念を背負うロック/思想性なきポップス」「個人の存在や生き方に関わるロック/日々の楽しみを充足するためのポップス」などである。ただし、そうした対立軸から伺えるように、実質的には過剰な意味投与にもとづくロックを支持する側が、「ロックでないもの=ポップス」と見なすことによって、そもそもあいまいなポップスの定義に輪郭を与えてきたともいえる。』…オタクとサブカルの対立もこんな感じかなあ。でもこっちは、オタクのほうが差別されてるという自意識から過剰な意味投与をしてきたかしら。考えんのめどい