20世紀末のオタクたちは何を理想していたか

こないだ新宿よったときに紀伊国屋で「TALKING LOFT3世〈VOL.2〉」という本を買ったんですよ。これはロフトプラスワンでのイベントの内容を書籍化したものなのですが、時代が99年頃と微妙な古さです。20世紀ですよ。
内容も「ねこぢる追悼」とか「だめ連vs宮台真司」とかで「あー、ホント微妙に懐かしいなあ」という気持ちにさせられます。
で、これの中で「コミックマーケットから見えた現在」と題して、東浩紀先生や伊藤剛さんがコミケ準備会の人と色々コミケやそれにとりまくオタク関連の状況について語っておりまして、飛び入りで竹熊健太郎先生も発言してたりして、中々豪華な面子となってます。
内容としてざーっと見ると「オタクは自立すべきだ」「オタクは積極的に情報を発信していくべきだ」「21世紀は間違いなくオタクの世紀になる」とか愉快なことが書いてあるんですが、8年前と現在で語られていることの違いみたいなのが結構面白いんで、省略しまくりながらちょっと見てみましょう。*1
まず、前フリとしてコミケでの撮影なんかをめぐるトラブルについて話しているんですが、その流れから準備会の人が「みんな準備会のスタッフに揉め事を任せすぎ。準備会だけでゴタゴタを全部片付けるなんてできねーよ(意訳)」という感じの話から

大西(コミケ準備会)「ただ、ちょっとここでコミケに来る人たちの『気構え』みたいなものを考えてみたいんだけど、一般の参加者に限らないことだけど、準備会として最低限コミケに来る人たちにして欲しいことは『自立』ということなんだよね。自分の足で立ってほしい。準備会のやり方なり、コミケットのあり方に不満があってももちろんかまわない。なんで見本誌をいちいち出さなきゃいけないんだ、とかね。ただ、こちらとしてはコミケに来る人は最低限自立して欲しい、ということはあるね」

自分で何とかできる問題は自分で何とかしろと。
ということですが、どうです、現在。
んでまあこっからオタクに対する偏見についてはどうすんべかということで、東先生。

東「確かに、ある年代以上が『オタクはあぶない』的な偏見をもっているのは事実だけど、そんなのもう考えても仕方ないじゃないですか。だから一足飛びに悲観的になるんじゃなくて、逆に、『われわれはもう差別されてない』みたいな顔を堂々として、偏見がある人たちを逆に無視しちゃったほうが強いんじゃないですか。僕はもうオタク文化にはその力があると思うけど。」


電波男


嫌オタク流


つ最近のオタク関連の色々


そこから話しは進みまして「コミケに来る一般人を『コミケの構成員』と考えるか、『お客』と考えるか」みたいな話題になりまして、東先生は性善説的に、一般のひやかしとかマスコミの取材をいっぱい受けるようになって一時的にイヤな思いしても、結局は良い方向で捉えられるようになっていくよ、と言います。
なんだか当時の予想よりも、結構イヤな思いする期間が長めな気もしますが、雪解けの季節は果たして訪れるのでしょうか。
で、「対一般メディア」みたいな話になってきたとき、そこで竹熊先生が颯爽と現れて語ります。

竹熊「ここまで聞いて思ったのは、今のコミケのおかれている状況が、一昔前の商業漫画の置かれていた状況と似ているということなんですよ。80年代からマンガが爆発的に売れるようになったわけなんですけど、いろんな人がマンガの売れる理由が知りたいと言って取材に来たときに、まともな対応が出来なかったという失敗が過去にあったと思うんですよ。やはりその頃のマンガの送り手と受け手の両方にマンガはメインカルチャーじゃなくマイナーなものだという意識があったからだとおもうんですが。
(中略)
で、ここまでの話しを聞いていると、コミケが自分達の表現を小さいながらも流通させていくんだという80年代ごろのカウンターカルチャー的考え方から抜け出せていない、ということを感じたんですよ。
(中略)
現在は30万人の参加者と3万のサークルでしょ。*2ここまで来たら社会にほっといてくれと言っても、ほっといてくれないわけですよ。

コミケの広報体制を米沢さんだけにしないで、もっと積極的に発信していこう、という流れに。
次に漫画家の砂さんがでてきて「プロの漫画家が同人誌をつくり続ける理由」について語ります。

砂「(前略)同人誌の値段が高いという場合、そこで暗黙の前提となってるのは商業誌の値段ですね。商業誌に比べて同人誌は高すぎる。しかしここで商業誌でも書いてる作家として言わせて貰いますと、商業誌は逆に安すぎる(笑)。
(略)
デビューしたての作家は、月々の安い原稿料だけで描くしかないので、初単行本が出てその印税収入で補えるようになるまで経済的苦境が続きます。それを『デビュー貧乏』と呼ぶわけです。では出版社のほうはというと、実はこれも雑誌ではヒイヒイで、単行本で潤うとかになってる。
(略)
現状では、同人誌は私のような作家にとって重要な副収入源になっています。それは、既存の商業誌の明日差を同人誌の高さが補っているというこおであって、作家の側としては当然あり得る選択だと思うのですが、同人誌文化が趣味から始まっているために、こうした態度は『営利主義だ』といった批判をコミケ内部から受けることもあります。
(略)
たしかにコミケは趣味の場として始まったわけですが、もう『趣味だから儲けるな』とかいった瑣末な視野で考えずに、マンガ出版会全体に対してコミケはどういう意味を持つか、ということを自覚すべき時期に来ていると思う。マンガ文化のためにも、コミケは営利活動を認めた自主流通市場として完全に脱皮すべきです。
(中略)
ここで問題なのは、現在のところ相した売れる同人誌の多くがパロディ同人誌だという点です。そこで、もう一つのコミケの論理の弱さがでてくる。
(略)
しかしもはや問題はコミケを維持することではなく、コミケがマンガ文化の何に資することが出来るかだと思う。趣味だから、とか、目立たないように、とかではなく、来るべき自主流通市場の拡大のためにも、パロディ同人誌で儲けていいといえるような積極的な論理が必要です。むしろそれがなければコミケを維持すらできないでしょう。」

東先生は、「パロディ作品をつられることは必ずしも作者にマイナスにはならない、それどころか経済効果としては逆かもしれない。そういうことを法律や経済に強い人の協力を得て、オタクの側が説明していくしかない」ということを仰ってます。正しいけど、あの、何時になったら…メカビとかでそういうことになるかしら?8年越しの夢がようやくとかならんかな。
ここからさらに児童ポルノ法案の話へと変化していきます。

東「(前略)自動ポルノ法の草案の段階では最初、「絵」も禁止になっていました。そこで、このトークショウを主催している『マンガ防衛同盟』や、社会学者の宮台真司さんが頑張ってくれたおかげで、昨年はその条項が外されました。
(略)
世界的に見れば、子どものセックスを描いた絵が禁止なのは当たり前で、カナダなんて、子どもがセックスしている文章だけでも犯罪なんです。この世界的な流れは、必ず日本にも入ってくる。だから、ロリコン系の同人誌やホームページを作っている人は、これからはかなりの理論武装をしなければいけないでしょう。その理屈が、だって女の子好きなんだもん、みたいな言葉では外人は聞かないよ。
「じゃあどうすればいいかというと、僕の考えでは、多少アクロバティックだけど、日本の『ロリコン文化』とペドファイルを切り離すしかないと思う。そもそもオタクのロリコンというのは、現実の小児性愛と無関係なことが多いし、事実、統計的にも、子ども相手の性的虐待は日本ではそれほど多くない。にもかかわらず、そこでアメリカの基準を機械的に当てはめると、日本のサブカルチャーのきわめて大きな部分が失われかねない。その社会的コストを考えると、児童ポルノ法に『絵』の条項を当てはめるのは無謀だ、みたいな論理ですね。」

という風に、「ロリコンテンツを守るには、日本にとってのクジラの重要性を訴えるようなやり方しかない」という結論におちつきました。


さて、これら8年前に問題視されていたこと、理想とされていたことを踏まえ、翻って現在は…
…十年近くたってるのに全く問題が解決してない!(;´Д`)
竹熊先生の言葉も「マンガ」を「萌え」とか置き換えれば今でもすんなり通るような。(;´Д`)
まあ、良くも悪くも失われた十年でしたとさ。

*1:∀からもう8年前になっちゃうんだ…時間たつのが早いですねマジ('A`)

*2:あー、まだ30万人だったんだなあ…地球人口の数を聞くときの感慨と似たようなものが('A`)