誰に言ったの「オタク is Dead」

大月  「おたくって結局、高度経済成長の「豊かさ」がなきゃ成り立たなかった意識のありようだと思うんですよ。岡田(斗司夫)とか唐沢俊一なんかはある意味典型です。親は大金持ちだし、子供部屋が何十畳っていう、こんなの普通ねえだろうっていう環境で、親がカネとヒマとを惜しみなく投入したからああいうヘンなもんが出てきた。だからといって、あれを目指しちゃいけない。たまたまああなってるわけなんだから。ただ、彼らは間違いなくある種のカルチャーエリートではあったわけですよ。”おたく”ってのはだからプライドもあったし、エリート同士の付き合い方もあったんだけど、それが今は商品化されて薄く広がっちゃったでしょ。つまり、大衆化したおたくにかつてのカルチャーエリートとしてのおたくが呑み込まれつつあるんですよ。」
大月隆寛  「教えてください富野です」)

先週同人誌ナイトのイベントの帰り、ロフトプラスワンの人たちがその次の週のオタキングのイベントについて語っているところを偶々立ち聞きしてしまった。
イベント自体の運行についてどうするか、というような話で、まずオタキングが「オタクは死んだ!」みたいなことを言って、それに対して30分一本勝負で本田透とかのオタク論者をぶつけて、「オタクは死んだってどういうことですか!」みたいなこと言わせて、それをオタキングが迎え撃つ、みたいなプロレス形式はどうか…とかなんとか語っていた。
オタキングのイベントそのものは興味深くはあったけれど、そんなイベントなら、誰がでてようがどうでもいいな…と思い、放っておくことにした。
果たしてネット上でみたイベントの内容は、予定外の様相を呈していたようで、これなら見に行けばよかったと思わせるものだった。*1
ショープロレスのはずが、シュートになっていた。


ネット上での反応は千差万別、オタキングの言葉を懐古主義的なロートルのたわ言と嗤う人もいれば、一方で、彼の言葉にそれ以上の何かしらを感じた人も大勢いた。「このままじゃいけない」という気持ちに対し、何か応えなくてはと反応する人も多い。また、オタクの定義まで話を戻して語る人もいた。いや、そこが一番多いかもしれない。
その話し自体の概要は、一番上の大月隆寛の話とほぼ同じだと思う。

そこで、「オタクは死んだ」という台詞は、一体誰に言ったものなのかと、単純に考えてみる。
それは岡田斗司夫が自分自身に言い聞かせるような意味も含めての言葉だったかも知れない。けど、これはあくまでも若い世代のオタク層に向けてハッパをかける意味で言おうとしたことだったのだろう。
それはオタクの一枚岩化というか、「お前らも俺達みたいになれ」ってことだけじゃなくて、なんというか、「真実に向かおうとする意思」みたいなものが欠如していることを嘆いている部分がある。こういうと、多分わからない人はさっぱりわからないと思うし、引く人は今ドン引きしたと思うが、なんというか、手塚治虫の昔から、いや、それ以上前からオタク的な人々に存在してきた「目指すべきもの」みたいなものが「真実」だ。循環論法っぽいけど、僕はそういう言い方しか出来ません。でも、そういうものはあると思います。
その思いは誰も笑っていいものじゃないと思うし、それを汲み取らずに懐古主義者は醜いわねみたいなことを平気で言ってしまう人は性格悪い…まあ、優しくはないと思う。
ただ、オタキングのほうも、折角の真剣勝負を仕掛けたっていうのに、それをロフトプラスワンでやってもしょうがないだろう、という気はする。それは彼が教鞭をとっている大阪芸大の薄いオタ学生の肩をつかんで語るべき言葉じゃないのか。まあそんな風に言われたほうは大きなお世話なんだろうけど、でも、ロフトプラスワンにまで彼の話を聞きに行くような人だけを相手に語ったところで、それじゃ内輪で終わるだけの話になってしまうじゃないか。
それだからその勝負はプロレスではなく、独り相撲になってしまった。
そんなんじゃダメだ。ロフトで一回語っただけじゃ、本当に伝えたい人には伝わらずに終わってしまうよ。今はその訴えがネットで広がって、オタクの第一から第三世代の人たちの色々な人たちがそれに反応してくれているけど、そういう人たちは多分オタキングが見て悲しいと思ってしまう類のオタクたちとは違う人種だ。例えば「オタクは死んだ!」みたいな記事がニュースサイトとかに載っていても、それをスルーして、その下に載ってる「youtubeで流れてる涼宮ハルヒの面白MAD動画紹介」だけ見て終わり、みたいな人が問題だっていうことだろう。
それはMAD動画が悪いわけでも涼宮ハルヒが悪いわけでもなく、ましてやニュースサイトの責任でもない。「オタク好みの流行もの」という幻想*2がつくられるところでニュースサイトの影響がないわけではないと思うけれども、責任はない。…ちょっと話がずれた。申し訳ない。
とにかく、ネット上でオタキングの言葉に反応する人は、オタキングの言葉を本当に伝えるべき相手ではない。
でも、こうしてプラスワンでオタキングが訴えたものも、ネット上で本来伝えるべきじゃない人たちの間で数日の間だけ消費されて、忘れかけた頃にイベントの内容を収録してちょろちょろと書き下ろしを加えた本が出版されて、また今回反応した人と同じ人たちだけが盛り上がって、それでまた結局伝えなきゃいけない人に伝わらないなんてことの繰り返しになったら、折角の涙も無駄というか、嘘になってしまう気がする。


ただ、オタキングがただ商売のための演技でああ言ったのか、泣きまねまでしたのかというと、そうではない、というか、それも実はあると思うけど、でも、それだけじゃない、と思う。
オタク第一世代はいっつもそうだ。
大塚英志とか島本和彦とかを例にあげると結構わかりやすいと思う。大塚英志も普段はしれっとした面で色々言って、ちょっと高いところから冷徹にものを見て語るように一見見えるけど、気がつくと熱い言葉が漏れてたりする。島本和彦も、熱血マンガ家みたいに言われながら実は熱血マンガをかなりクレバーにギャグとして描いていたりするけれど、気がつくと熱くなって、本気で熱血を描いている。
こう書くと失礼だが、みんなある程度、信者になったバカから金を絞ろうという気持ちがないわけではなかったと思う。完全に熱意だけではなかったかも知れないけれど、でもみんな完全に嘘偽りだけでもない。
でも、それは最初っからそうして相手に言わなきゃだめなんだ。本を書いてきた?作品で語ってきた?読まれないよ。伝わらないよ。
だからって、今更そんなことをそんな場所で言ってもダメなんだよ。そんなんじゃ相手はわかってくれないんだ。

「勝手に想ってるだけの想いなど子供に伝わるわけがないだろ!」
(ジョナサン「ブレンパワード」)


でも、第三世代のオタクたちのなかでも、オタキングと同じような悶々を溜め込んでいる人は大勢いると思う。ネット上には僕より若いのに僕より幅広く深い教養をもったオタクとかもいるし、そうでなくとも、周りのそうした付和雷同するヌルオタ連中に囲まれて苛立っている人も知ってる。オタキングの求めるほどクリエイティブで教養深いオタクもそうはいないだろうけれど、でも、「俺がなんとかしなきゃ」と思ってる20歳前後、あるいはそれよりも下の若いオタクは絶対にいる。
ただ、そういう人たちがなぜ人々の目に見えるところに出てこないかというと、それは大月隆寛の言葉にもあるとおり、オタクとはただでさえ金がかかるものなのに、今ほどオタクが必要とする教養科目が増えすぎている昨今では、現在のことを網羅するにしても。過去のことを体得するにしても、コストがかかりすぎる。それを全部体得してるほどの時間も金もないだろう。岡田斗司夫だって、ボンボンだから出来た部分があったろう。でも、今は金のないオタクこそがそうやって悶々として、金のあるオタクはとりあえず消費できるからいいやみたいになってる気がする。そうしてるうちに社会に出て行かなきゃいけない歳になって、オタクとして有効利用できる学生時代なんかが過ぎ去ってしまい、「何とかする」こともなく、悶々を抱えたまま埋もれてしまうのだ。
薄いオタクの増加とそれによるオタク文化の腐敗を嘆くのなら、大学生くらいのオタに対して第一世代やそれ以前の第ゼロ世代は積極的に深く関わるべきだと思う。第一線で活躍してる人たちには、そんな時間の余裕はないだろうが、それでも、熱意ある若いオタクにとっては、第一世代のオタクたちは雲の上の存在過ぎて近寄れない。反面、無知で何も考えていない若いオタクは、第一世代のオタクたちに平気で近寄って、醜態をさらす。そうして世代間のATフィールドがどんどん分厚くなっていくのをみると悲しい。
そういう点では、竹熊先生や森川嘉一郎さんや伊藤剛さんがやっている「キャラクターメディア・ゼミ」の成果は気になる。
そうまでしなくとも、なにかしら彼らの手助けくらいはして欲しい。
また、地方プロパーといわれるだろうが*3地方で悶々とするオタクが多いのも、今まで何度も述べてきたとおりだから、そういうところから手を伸ばそうとする人を助けて欲しいとも思う。
別に指導したりする必要はないが、自分の仕事でそっち方面のものをすくいとってくような仕組みを作って欲しい。ちょっと出向いてくれるだけでもいいし、金を貸してあげるだけでもいい。第一世代の巨人たちみんなが、気持ちだけあるけど知識や金やらなんやらが追いつかない人をなんとか見つけて、すくい上げてくれるようにしてくれたら、少しは空気も変わるんじゃないかと思う。


自分が楽しむのに必死で、下の子たちの面倒を見なかったのは悪いことだったけど、今からでもなんとかなるはずだ。
ロフトプラスワンでクダ巻いて「オタクは死んだ!」なんて言うのは、それこそいまわの際でいいじゃないか。


オタキング以外のオタクも、同じようにオタク文化、今のままじゃダメだ、どういうところを目指すか、みたいな感覚は、熱いオタク(冷めた振りした人も含めて)はみんな共有していると思う。「このままじゃいけない」みたいな思いからどうするか、というところから、もうちょっと外に向けた言葉を発そうという気持ちがあると思う。といっても、なんか国のお抱えになろうみたいな、ピラミッドの上を目指すような形での対外志向ともまた違う形だとは思う。
なんとも説明し難いのだけれど。
例えば本田透の「ファントム」や、そもそも「電波男」でさえも、実はオタク向けでありながら、メッセージとしてオタク以外のところを向いたものだったと思う。
その思いは、以下の言葉がうまく説明していると思う。

ただ、ぼくは基本的にはおたくなものはつまらないと思っています。「おたくの中だけで完結していてはダメなんじゃないか。どこかで現実に帰ってこないと意味がないんじゃないか」って。SFはもともとおたくじゃなかったんですよ。あれはカウンター・カルチャーの一部であり、当時のロック、ドラッグ、サイケデリック革命と結びついていたものだった。SFも、映画も、アニメも若者文化のひとつの要素だった。だけどいつの間にかそうではなくなってしまったわけです。どんどんおたく化が進んでいって、そのジャンルの中で完結してしまうようになる。でも、本来はそうじゃなくて、SFというのは現実を照らし出すための道具のひとつだった。ロックもサイケデリックもみんなそう。映画も、ぼくが好きなような映画はとくにおたくの偏愛対象と思われてるふしがありますよね。でも、おたく的な研究をいくらやってもつまらない。結局は重箱の隅をほじくりかえすだけだし、わかってる同士でうなずきあっておしまいみたいな感じですよね。それよりは興味も持ってなかったような人を驚かせて、相手の価値観を変えてやる方が楽しいかな、と思うんですよ。だからこそ「これが映画の本道だ」なんて本を書いて足掻いてみたりするわけなんですけどね。
柳下毅一郎 http://media.excite.co.jp/book/interview/200402/p04.htmlより)

伝えたい人に直に伝えることは難しいかも知れないけれど、伝えて欲しい。それもダメなら、こういう意識を持った「伝えて欲しいと願う人」に伝えて言って欲しい。そうすれば、きっとなにか変わると思う。

大切なのは『真実に向かおうとする意思』だと思っている。向かおうとする意思さえ あればたとえ今回は犯人が逃げたとしてもいつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな・・・・・・・・・違うかい?
(殉職した警官 「ジョジョの奇妙な冒険」)


オタク is Dead」?
だーいじょうぶ、まーかせて!
以上、オタク第三世代からでしたー。

*1:つってもそうそう簡単にはいけない田舎もんなんですが。

*2:別に一般メディアから見たメイド喫茶とかそういうのじゃなくて、例えば今なら涼宮ハルヒがそうだろうし、一昔前だとFateとか、スクランとかもそういうものだったと思う。

*3:実際そうなんだけど