中野アニメーション学院9感想と、かしまし最終回の因果

そういえば書くの忘れてたんですけど、この間のアニメ会さんのライブ「中野アニメーション学院9」観に行きましたよ。
特に印象に残ったことといえば、亀子さんがやりたい放題で面白すぎたということでしょうか。多分、「二次元へいきまっしょい」だけ観てる人には、亀子さんって結構微妙なキャラのように見えると思うんですけど、ライブで観ると彼は本当に面白いですよ。これも三平さんや国井さんの上手いツッコミがあるから際立ってるのだと思うのですが。「ともだち」のコスプレ観たときには、確かにあれなら低予算で誰でも出来るなと思いました。
今回は綱掛裕美さんと志村由美さんの「ちっちゃいふたり」がゲストとしていらっしゃってました。
お二人が比嘉さんと亀子さんの二人が撮った寸劇VTRに声を当てる、というものがあったのですが、いやあ声優って凄いんだなって思いましたよ。VTRだけ観ると、「比嘉さんとリリスがじゃれあう」というシュールすぎるに程がある映像だったのですが、それに綱掛さんと志村さんが声を当てるだけで二人が萌えキャラに見えてくるんですよ。意外と人間て聴覚からの情報も大事だなと思いました。
そのあと二人のライブなんかもあったのですが、ステージ近くの席の人達が派手なパフォーマンスで、むしろそっちに意識が集中してしまい、歌を聴くのを忘れてました。('A`)
アイドルのコンサートとかだとあれくらいが普通なんですかね。知らんけど。
後半はローゼンメイデンの紹介ということで、内容紹介やキャラ相関図なんかをスクリーンに映して色々説明。
ラストは「ぼくのかんがえたローゼンメイデン」みたいなノリで、アニメ会が考える「第八ドールは(あるとしたら)どんなものか?」というコーナー。
亀子さんが攻殻機動隊から「人形使い」、三平さんが「呪いの日本人形」なんかを出してきたあたりで飛ばしてるなあと思ったら、比嘉さんが「平野レミ」でタツオさんが「清川虹子」、国井さんが「林家ペー・パー」(人工精霊はこん平・小遊三)と、最初の人形使いが一番マシだったというオチ。
それで最後は三平さんの誕生日ということで、ハッピーバースデーのかわりに「アネモネ」のシュプレヒコールで締めました。

さて、その三平さんなのですが、「かしまし」例の最終回*1についてアニメ会の面々で「なぜああなってしまったんだ!?」と話していたところ、三平さんが「あえていうなら俺が悪い」といったそうで。

タツオ「やす菜ととまりちゃんの誤解を俺はテレビの外で知ってるのに、なんであの二人に伝えられなかったのか、だから俺が悪い!って言ってたんですよ。あれ聞いてちょっと冷めましたもん
国井「なんであの三角関係のなかに自分が入ってるんだろうな!?

まあこれだけ聞くと「アハハ三平さん面白いなあ」で終わるのですが、ちょうど今日、仏教についての本を読んでたら、なかなか関係あるような無いようなことが書いてあったので、意外に深い言葉だったのだということを悟りましたね。いや多分ただのギャグなんですけど。

いきなりはじめる浄土真宗 (インターネット持仏堂 1)

いきなりはじめる浄土真宗 (インターネット持仏堂 1)

この本は内田樹先生と釈徹宗先生の往復書簡形式で語るものなのですが、中々面白いです。まだ読み途中ですけど。
そこで因果論というものについての話題となるのですが、ここでの内田先生の文章が興味深いですね。

言い換えると、成人とは、この社会で悪がなされ、義人が不義で苦しんでいるときに、そのことを誰よりもまず「自分の責任として引き受ける人間だ、ということです。
(略)
「私は有責であるが、それは何らかの罪によって有責であるのではなく、かつて一度も現在になったことのない過去において、一度も犯したことの無い罪について有責なのである」というのが、レヴィナスの有責論の構造ですが、ここでは因果律は時間の逆流のせいで、ずいぶんと歪んだかたちになっているようです。
内田樹 「いきなりはじめる浄土真宗―インターネット持仏堂〈1〉」)

つまりですね、かしましの最終回をみて
「『あのね』で終わりって、なんだよそりゃ!これで続き物にさせてDVD無理やり買わせて儲けようってのか!消費者バカにすんじゃねえよ!あかほりか!あかほりが悪いんか!とにかく責任者出て来い!」
と言うのは簡単です。実際、これでオタクどもにDVD買わせたるでえ〜エシェシェシェシェというバンダイの策略かも知れません。
しかし、仮にそうだとしてもです。「いや、あんな結末になってしまったのは俺のせいだよ。俺がモニターの中に入る能力が無かったせいでこんなことに」とか考えられたほうが、面白いというかなんというか、オタクのあり方として、良いものではないかなあと思うのです。
そんなん言ってかしましを許してたら、アニメ業界が調子付いて「あのね商法」をバンバン出してくるかも知れんじゃないか、そしたらどうすんじゃい、という反論もあるやも知れませんが、そんなことばかりする企業は、そのうち信頼を失って自滅するだろうからそれはそれでいいのです。そうではなくて、かしましに限らず、作品に対して、常にそういう気持ちで向かっていれば、無駄に怒りや不快感を増やさず、逆に周囲に笑いや思考の転換なんかをもたらして良いのではないかな、とおもうのです。
例えばあるゲームの発売が延期に延期を重ねていたとします。そのとき、「社員は何やってんだ」「どうも社内でゴタゴタがあったらしい」「経営陣が悪いようだ」とかなんとか悪者を探すよりも、「いや、俺がシナリオライターを志していなかったばかりに、ここでゲームの開発が進まないという結果になってしまったのだ」とか「いや、俺が原画師を(ry」という感じで捉えてですね、そのゲームがグロゲーだったりしても「いや、俺が氏賀Y太を好きだという電波を無意識のうちに発信して、それを偶然社員が受信してしまっていたのだ」とか考えられたほうが、建設的…というのも変かもしれませんが、なんにしてもそれぐらいの頭脳の柔和さを持ち合わせられたら良いなあと思うのです。

私たちはあらゆる出来事について、あらゆる「原因」を想定することができます。そのときに、「豊かな原因」を探し求める活動的な知性と、「貧しい原因」で満足してしまう凡庸な知性の間には歴然たる「差」が生じます。
(中略)
釈先生の仰る「執着・無明」とは、自分の身に起こった出来事をどういう物語的文脈の中に整序するのかの選択に際して、できあいのストックフレーズを無批判に流用して怪しまない知性の怠慢、不活性のことを指しているのではないでしょうか?
たとえば、わが身の不幸を単一の「原因」(誰かの悪意とか幼児期のトラウマ)に帰して「納得できる」人間と、無数の前件の複合的効果として受け止めれる人間の間には、人間性の深みにおいて際立った差が生まれるでしょう。
(中略)
仏教がもし単純な因果関係による説明をいましめているのだとしたら、それは因果による思考を放棄することではなく、広大で、豊かな因果のネットワークを構想する知性を励ますためではないかと私には思われるのです。
内田樹 「いきなりはじめる浄土真宗―インターネット持仏堂〈1〉」)

*1:リンク先ネタバレ