覚悟さんへのお返事その2というか

「私は『時計仕掛けのオレンジ』で問いかけを残している。選択できない問いを。人間の本性が邪悪だからといって、その自由意志を制限することが許されるのか?自由意志のない者を人間と呼ぶことができるのか?」
スタンリー・キューブリック  町山智浩『「映画の見方」がわかる本』)


覚悟さんからコメントを頂いてから色々考えるのですが、自由と倫理とか考えていくと、雑念と言うか、気が付くと思考が脱線したりすることがしばしば。
まあ脱線したらしたらで良いかとおもいだらだらと延べていきたいとおもいますよ。

>自分がやりたい行為でも他人を踏みにじるなら抑制するとするなら、
>それはやはり倫理を自由の上位に於いているのは変わらず、
>倫理の基準が違うだけのように思うのです。

一番初めにこのコメント見たときには、なるほどー言われてみればその通りだなあーとか思ったのですが、だらだら考えていると、自分の感情的・感覚的なものと理屈的なもので差があるような気がしてきたのですね。
僕自身の感情的なところでは確かに倫理が上位に行っています。DQNが他人を傷つけたりするのは、例え自分が当事者でないにしても不愉快な気分となります。人はそうした行動を謹んで生きるべきだと思います。ですが、それはあくまで僕の趣向というものが偶々そういうものだっただけで、理屈だけでいくならそれこそ自由はなにものにも優先してしまうのではないかな、相手が傷つくとかどうこういうものを超越してしまうのではないかな、と。
この辺、以前のエントリで僕は、それこそ読書感想日記で指摘されたような「気分次第で行動できる自由」というものと混同していたというか、あえて分けんでもいいかなみたいになってたのですが…ようするにですね、「己の自由は他人を傷つける事に優先されるという価値観」は、確かに理屈で行くならそれもまたやむなしということになります。
なんか書いてる途中、脳内で「あいむしーんぎんいんざれぃーん」と「雨に唄えば」がリフレインし始めたのですが(いちばん上の引用はその後で付け加えたものなのですが)、まさにこれは「時計仕掛けのオレンジ」や、石原慎太郎の「完全なる遊戯」のような話だなあ、と思います。
今日は別にこれらの本を紹介するつもりはないので簡潔に説明しますと、どちらの作品も「人間の自由の意思の限界と、制約について」ということを描いた物語なのですね。「完全なる遊戯」では、DQNの主人公たちは暇つぶしに知恵遅れの少女を輪姦し、娼婦に身をおとしても健気に生きようとする彼女を崖から突き落として殺害、それでおしまいというどこにも救いの無いお話です。一方「時計仕掛け〜」はナチュラルボーン鬼畜のアレックスを洗脳して更生させるのですが、今までの悪事の応報やそれ以上のリンチを受けて半殺しにあい、目覚めると洗脳が解けていて元の凶悪なDQNにもどり、そこから政界進出を夢見て終わりという話。
どっちのはなしでも主人公のDQNは、レイプや人殺しなどの取り返しのつかない犯罪をやっておきながら、実際ちっとも心を痛めていないのです。アレックスは洗脳された後で悔いたりしてますが、結局彼ら自身はそれを悪いことと認識していない。これらの物語は、DQNたちが欲望のままにあることを奨励している、倫理的によくない作品だとして糾弾されました。
しかし、彼らがそうした自由を制限されてしまったとしたら、それはそれで、彼らを彼らたらしめているものが損なわれるわけです。別にDQN擁護しているわけではないですよ。そういう一面もまたあるということです。で、自分の考えや、自分の読み取った本田透の考えとしては、「だから二次元だけを志向するようにしようよ」というのですが、それは「そっちの価値観なら他人の自由を侵害しないかたちで自由が伸張できる」ということだからではないか、まず自由ありきから考えられている倫理ではないかなあと…*1また、僕の考える真実の愛では、そんなDQNたちの鬼畜っぷりも受け入れてこそ真実の愛という風にもなってしまうわけです。
ですので、僕個人が倫理を自由よりも重視しているというのは正解でしょうし、本田透さんもおなじくでしょう。いっぽうで、やっぱり自由が倫理よりも重視されているということも間違いではない部分があるということではないかなと思います。


とかなんとか書きながら、自分で「うーん、どうなのかなあ」とか未だに悩んでいたりするので、まあ僕にとっては難しい問題ですねえ。日付が変わると頭がボーっとして物事考えられなくなるので今日はこの辺で。('A`)

だが、そんな「生のカオス」をあるがままに祝福するのが芸術なのだ。芸術とは「人は(世界は)こうあるべきだ」と理想を押しつけることではない…。『2001年宇宙の旅』でキューブリックは人間の残酷な本性を「乗り越えるべきもの」として描いたが、残酷さがなければ猿は人間になれなかった。残酷さもまた人間の生のエネルギーなのだ。
(町山智弘『「映画の見方」がわかる本』)

(鬼畜ゲーム大全について)まあ、この本にはそれとは別に、ひらさかりゅうじ大先生のようなナチュラルボーン鬼畜も登場するわけですが。これはこれで自分には絶対になれないんだけど、憧れてしまう、そんな悪の魅力が満載ですね。猪木に心ひかれるのと同じで( ・ω・) こんな人になれたら、人生楽しそうだなー、と(;´∀`)
本田透 萌える大甲子園

*1:この辺詭弁っぽいな俺。うーむ。