「萌える男」感想と電波男読解の続きみたいなの

すっかり世の時流に取り残されている感がありますが、ようやっと「萌える男」を読み終わりましたよ。('A`)

萌える男 (ちくま新書)

萌える男 (ちくま新書)

で、萌える男では電波男にくらべて色々継ぎ足した部分もあるのですが、概ねの内容は同じですね。ただ電波男にあった諧謔的な文章がざっくり無くなってますんで*1、主張したいことがはるかに分かり易くまとまってますね。ということで萌える男の感想を。いつもどおり、なぜかこっから真面目な文体になりますですよ。
萌える男」の主張は、基本的には電波男と同じだ。細かくまとめてあるサイトもあるようなので、詳しくはそちらを参考にしてらうとして、ここでは話に入る前提を掴む為にものすごーく雑に要約する。

  • 恋愛資本主義」という幻想が世に蔓延っている。これは本来相手を自分の自我の保証人とし合う「恋愛」が資本主義のシステムに取り込まれたもので、この幻想内でヒエラルキーを生み出し、全ての人間に対し勝者になることを半ば義務付け、その敗者を差別するものである。しかし真に勝者になれるものなど稀である。これでは自我の安定は得られない。そのため、システムから逸脱した存在が現れた。それこそが「萌える男」なのだ。(ある幻想からの自由、別な幻想への自由)
  • 「萌え」の優れた点の一つは、実在する他者でなく、空想のキャラクターを恋愛の対象とすることだ。実在の人物を対象とすると、対象が理想に沿わない行動をしたときにまずいことになったりもするが、二次元相手なら実際の人物ではないので、どんなエゴであってもかまわない。他人を苦しめる方向には向かわない。(二次元の存在が三次元での非倫理的な行動を回避させる)
  • 「恋愛」の機能を詳しく言うと、男女がお互いに自我を支えあう…その人の自我を不安定にする自己不全意識や罪悪感などを赦すことで、レゾンデートルの確保やトラウマの回復などの効果が得られる。これを個人が脳内でシミュレートするのが「萌え」。(赦すことで人は救われる)
  • 二次元で萌えることは傍から見れば女々しいこと。じつは「男たるものかくあるべし」という考え方から脱却する、男性性から解放する運動としての機能も「萌え」にはある。萌えの世界では、基本的に男女平等か女性優位となっている。鬼畜ものはその逆。(恋愛資本主義の代案のひとつとしての萌えシステムの構築)
  • 「恋愛」には自我の安定の作用の他に、家族――恋愛と同じく、自我を安定させる機能をもったもの――を形成し維持していくという機能もあったが、恋愛資本主義によってその機能も破壊されてしまった。「萌え」は家族の機能を如何に回復させるかという思考実験でもある。(恋愛結婚でつくられる家族そのものを回復させるのとは違う。あくまで重要なのはその機能を回復させること)
  • 三次元世界は二次元世界で共同幻想となったものをフィードバックさせる場であるから、「萌え」が大勢の人間に共有される思想になれば、それは現実になり、三次元の人間相手に萌えることが出来るようになり、自我の安定を三次元の人間関係に求めることが出来るようになる。つまり恋愛や家族の機能が復活する。ただ、「萌え」というものを認めない一元論的な考え方が主流のままでは、このフィードバックは成功しない。(二次元が三次元をリライトする)


…と、これが「萌える男」の大まかな内容だ。
上四つについては今までの電波男読解のほうで述べてきた事柄なので、「萌える男」にて電波男のときよりも充実した内容となった下二つのほうについて述べたい。
まずは「家族の機能の復活」の件だ。一応電波男のときもチラッとふれてはいたが、ページも最後のほうで、あまり重視されたものではなかった。萌える男曰く、家族の崩壊に当たって「妹萌え」「姉萌え」などの「家族萌え」によって恋愛も家族愛もふくんだ愛情の完全崩壊にモラトリアムを生み出すという機能が「萌え」にはあり、その間に自我を安定させる作用のある新しい関係性を模索し実行するのだ、と。その機能さえ保持されていればどんな関係性でもいいようなのだが、まあこれから生まれてくる子供のこととかを考えると、愛情ある家族を復活させることが一番良い結果なのだろう。

次に二次元の三次元へのフィードバックという項目から、森川嘉一郎氏の「趣都の誕生」を思い出した。あれも二次元の三次元化というものを「趣味(人格=二次元)が空間(都市や建築物=三次元)を変える」という言い方で表していた。「萌え経済学」でも、たのみこむなどの例から、個人の趣向…二次元での妄想から、三次元での製品開発を生み出すという例を取り上げていた。やはりオタク特有の能力として、ヒエラルキー上位のもの=三次元を自分の趣向=二次元に合うように染め上げるというものがあるのかもしれない。

あと喪女に関するあたりが少ししかなかったのが残念だ。ただ、あのあたりから、なんとなく三次元の相手に萌える切っ掛けみたいなものが、相手の「趣味」というものなのではないかなと感じた。以前も述べたように、倫理観でもって愛する相手を特定することは難しいし、かといっていきなり相手が全てを赦しあえるような人だと見切ることはほぼ確実に不可能だ。「オタクは自分は赦してもらいたがってるくせに自分は絶対赦さないよなm9(^Д^)プギャー 」という意見がよくあるが、それはそうだ。赦すもなにも、オタクや喪男を弾劾してくる女性には、自分が他人とは違う性質をもつ個人だという自意識すらない。本人はあるというかも知れないが、それだって大半がどこかで観たパターンの反復なのだから、受容する相手そのものがまず無いではないか。仮にそうしたものが存在するにしても、それを知る状況まで到達できない場合が殆どだろう。いや、これは自分の経験からなので、そうでもないのかも知れないが…とにかく、これでは三次元の相手には萌えられない。では三次元の相手の何に萌えうるのかというと、相手の心・人格ということになるのだが、その心やら人格やらとは何かと言うと、その人の「趣味」ではないかと思うのだ。今回も確実な根拠の無い話で恐縮なのだが、電波男から電波大戦を通じ萌える男に至る一連の文章の行間を読むと、そんな気がするのだ。
前述の「趣都の誕生」では、オタクと言う人格は、その趣味の構造に特徴付けられているとしている。趣味趣向という、人格の中でも特に個人を特定する性質をもつ物の偏在が都市を変えるのだという。例えば以前ちゆ12歳でも言われたように、オタクがオタク趣味を捨てるということはオタクという人格を形成する根本を捨てるといっているようなものなのだ。

たまに「オタクがオタクをやめる」という話も聞きますが、ちゆには「犬が犬をやめる」と同じくらい無理のある響きに聞こえます。
(ちゆ12歳 「もうオタクとつき合うしかない? 」)

政治的な意見や科学的見識は、個人の人格と関係して入るが、論理によって転向できるものだ。だがしかし、趣味や趣向と言うものは誰かにメリットやデメリットを示されて、それで決定するという性質のものではない。自己の好奇心の赴くままにしていると何がしかのオタクになっていたりするわけで、「げんしけん」の斑目の台詞に代表されるように、なろうと思ってなるものでなく、気が付いたらオタクになってるものなのだろう。例えばツンデレ萌えな人が居たとして、彼は別に流行しているから萌えるとか、誰それに強制されて萌えるようになったというわけではなく、単純にゲームなりマンガなりに描かれているそうした性質のキャラが好きだったから、彼の趣味に沿うものだったから萌えたというだけの話だ。
このように、普通のオタクが萌えるというときは、個人個人で趣向が微妙に違うために萌えるキャラやらなにやらの差異が生まれ、それが自然と個々人の差異を生むのだ。
だからその個人の趣向と相手の趣向が沿うような状態、個人と個人の人格がかみ合うような関係性において、三次元世界でも萌えることが可能となるのだ。うーん、こうしてまとめると、当然といえば当然のような文章になってしまった。
これは電波大戦における倉田英之との対談で、その顕著な例が見れる。

倉田 まずは(自分の萌えキャラを)作って広めればいいじゃん。そうするとアメリカでその実写版に会えるかもしれないという(笑)。

自分の趣向はこうだということを相手に示す=R.O.Dのような作品を作り上げる
その趣向にそう人に萌える=サイン会でアメリカ人の読子のコスプレしたそっくりさんと出会い、秋葉原をつれまわすように。

という形にみられるような、「趣味趣向の一致」からまず萌え始めて、そこから次第に相手の至らぬ点を許容する真実の愛にたどり着くというルートが、ありうる形での三次元相手での萌えルートなのではないか。
これは電波男にも示されている。残念ながら今手元に無いので後日詳細を追記しようと思うのだが、確か後半部の萌えが主流になればこうなると言う例を示すくだりで、ネコミミを装着することで相手の好感度があがったり、趣味について何々が萌えるという話題などでも好感度があがるという例を示しており、つまるところ「趣味・趣向の一致」に対して萌えることが、その相手に対して萌えることになり、そこから真実の愛が育まれるというルートが、本田透の考える三次元に萌えるルートなのではないかと考えるのだ。 


さて、今回は気が付いたら萌える男の感想から外れていてしまった。他にも色々思いつくことがあったのですが、整理しきれていないのでまた今度。

*1:つっても所々「これはウケ狙ってるだろw」という部分もありますが