電波男読解〜電波男の倫理〜

電波男の名を借りて自分の考えを述べているだけのような気もする今日この頃。

さて電波男内における倫理というのは、読書感想日記がこれでもかと言わん程に書ききってくれているので、自分がいまさら駄文を連ねる必要はないだろう。

電波男がオタクという呼び方で暗黙的に定義しているのは、実は「女の子を傷つけてはいけない、女の子を人間として扱わなければいけない」という倫理観を持った人間なのだ。そして電波男が断罪する三十女の姿も明白になる。「おたく男は傷つけてもいい、おたく男を人間として扱わなくてもいい」という倫理観を持った人間だ。

つまり人間は人間として扱うべきである…逆に言うなら、他人を自分の道具と見なすことが悪だと言っている。例えば自分の財布として相手を見たり、性欲解消のためのオナホールとして異性を捉えたり、出世のための踏み台としてオタクを69番めの恋人にするのは悪いことだ、そんなことするくらいなら引きこもって妄想したほうが良い、ということが電波男の倫理観である。
そしてそれは例外があるにしても、多くのオタクにとって同意されている倫理観のはずだ、と本田透は訴える。

心が優しいからオタクになったのだ!
自分が傷つけられても、人を傷つけたくないから、オタクになったのだ!
電波男

つまりオタクの行動においてはこの倫理観が裏打ちされているはずだと。で、喪男道などではこの倫理を相手にも求める。むしろ、倫理観こそが愛の対象とされている。

「恋人はモラリスト(条件を満たす存在)であれば誰でも良いの?
それが唯一の愛と言えないのでは?」そう感じる人も多いでしょう。
私は「モラリスト(条件を満たす)なら誰でもいい」それで良いと思います。
私が恋人を探していた頃もこんな感じでした。
ただし、あくまで恋愛相手としての選定段階までについてです。
5年も10年も付き合ったにも拘らず、上記のような
「条件を満たすなら誰でもいい」という感情を持つ人は異常ですが。
人間は他者や物にでも長年を共にした存在に「愛着」を持ちます。
愛着とは「永い間を共に過ごしたことにより生じる精神的繋がりや執着」です。
また、長い年月を過ごす間に困難を共に乗り越えれば、互いでの信頼が強まります。
共に困難を乗り越える事により、
「ああ、ピンチになってもこの人は私を見捨てて逃げ出さない」
という証明が信頼へと繋がるのです。

倫理は所詮その人の外殻に過ぎない。たとえば人を殺してはいけないというのは殆どの人が共感し実践している倫理だが、だからといってその倫理感を持つ人が全員同じような人格であるわけではない。今でこそ電通などの手によって倫理が崩壊してはいるが、ある程度倫理は万人に共通で、倫理はその人の意思のひとつの側面ではあるが、その人そのものでは無いのだから、愛の対象がその人でなければならない理由にはならない。そこで喪男道は倫理を基準に恋愛の対象を選び、年月を経て愛着を重ねることで真実の愛に移行するはずだとしているが、しかし相手の倫理観だけでは、同じ程度の倫理感のAとBのAをなぜ選んだのかが説明できない。そんなどっちでも良いような条件での選択で、相手に愛着がわくだろうか。

読書感想文や喪男道を読んでいると、首肯する点も多々あるが、逆になんとなく違和感を感じるような点もあった。今回文章化してみて感じたのは、両者とも電波男内で語られる「自由」と「倫理」において「倫理」のほうに重きを置いている点に自分の違和感の正体があるのだと感じた。

自分が考えるに、電波男では「自由」のほうを最大限に肯定している。「倫理」はその下位におかれているものだと思う。…かといって、けっして倫理を軽視しているわけではない。自由であることと倫理的であることは反さない。と思う。たぶん。なんか長くなっちゃったうえにとっちらかってしまったので二つに分けよう。次回は電波男の語る自由について見てみたい。