タクシードライバーの裏側は「萌えルート:ロッキー編」

『ロッキー』はまず高らかなファンファーレで幕を開ける。そしてキリストの壁画がアップになる。「これは“復活”の物語だからだ」と(監督の)アヴィルドセンは言う。
町山智浩 「映画の見方がわかる本」P208)

アニメの「ガラスの仮面」が凄い面白いですね。「ゴルゴ13は何時終わるのか?」で竹熊博士が「ガラスの仮面は現代の合法麻薬だ!」と言っていたことの意味が少しだけわかりました。ただ、前回のエントリの続きではないですが、うちの地方じゃガラスの仮面は見れないんでGyaoで見てます。こういったサービスがもっと増えてくと良いですね…まあUSENはなにかと曰くつきではありますが、まあ置いといてと。
ということでガラスの仮面のほう見てたら「萌える男」が全然読めてないという('A`)ヤベー
そこで今日はまた「映画の見方がわかる本」から「ロッキー」についてです。
ロッキーは大昔に一度見たきりで、内容をさっぱり忘れていたのですが…久しぶりに見返してみると、やっぱり面白いですね。凡百のお涙頂戴根性物語とは一線を画します。それは多分、物語がスタローンの魂の叫びであったためでしょう。
タクシードライバーという映画が、トラヴィスという駄目人間が絶望から憎しみの中に取り込まれるまでを描いた「死の物語」だとするなら、ロッキーという映画は、ロッキーという駄目人間が絶望の中から甦るまでを描いた「復活の物語」となります。ふたつは全く逆の全然違うお話なのですが、一方で同じ話しでもあるのです。

シルベスタ・スタローンは売れない俳優だった。じきに三十路になるというのに出演した映画は数少なく、ポルノやゲテモノのZ級映画ばかりだった。落ちたオーディションの数は50にも上った。食うために動物園でライオンの檻掃除もやった。しかし、彼の俳優としての目は全く出そうも無かった。彼は身長170センチというチビで、おまけに分娩時の事故で顔の右半分が麻痺しており、唇は捻じれて垂れ下がり、台詞も不明瞭でおまけに無表情。スターとなるには致命的な要素ばかりであった。
そんなスタローンは「イージーライダー」をみて思いつく。「俺に合う映画がないってんなら、俺が自分で作ればいいじゃないか」と。イージーライダーは、無名の俳優二人が制作・脚本・監督・主演をこなして作った、大ヒットの低予算映画である。何十作もの脚本を書いては映画会社に送りつけるスタローン。
しかし、彼の脚本を採用してくれるようなところは無い。
「結局、俺はただのBum(くず、バカ、ごろつき)でしかないのか」
Bumというのは、ロッキーの映画内で多用される表現だ。人々は繰り返し、互いにこの言葉を浴びせ続ける。
しかしある日スタローンは世界ヘビー級タイトルマッチ「モハメド=アリ対チャック=ウェプナー」の試合を観戦した。無名の貧乏ボクサーであるウェプナーが、アリからダウンを奪い、血みどろになりながらも最終ラウンドまで戦い続けた。ウェプナーは負けてしまったが、この試合に猛烈に感動したロッキーは、たった三日間で「ロッキー」のシナリオを書き上げた。
ユナイテッド・アーティスト社はスタローンからロッキーのシナリオを買い取ろうとしたが、スタローンはそれを拒否した。「ロッキーは俺が演じるために書いた脚本だ。誰かハリウッドのスターに演じさせるためじゃない。脚本料なんかいくらでも良い、俺に主演をやらせろ」会社にしてみれば、どこの馬の骨とも知らないスタローンを主演俳優として使うなどという危険な橋はわたれない。結局ロッキー制作のために与えられた予算は全部で百万ドルとなった。これは当時のTVシリーズ一本分の金額だ。
金がないためセットもつくれず、リテイクする余裕も無い。徹底した節約は、物語に生々しいリアリティを生み出す。最も効果的だったのは舞台となるフィラデルフィアの空気感だ。1776年に独立宣言が出された街。街のモットーは「友愛」ではあったが、実際は全くの逆だった。街角にはあきらめや哀しみや暴力が渦巻き、荒廃している。「ニューシネマ」といわれる一連の映画は、こうした都市を舞台とすることで当時のアメリカの挫折感を描いていた。「自由と幸福を求める国のアメリカが、どうしてこんなことになったんだ」建国200年目のアメリカに、ロッキーはそんな思いを抱かせる。



ロッキーは30歳のしがないボクサー。試合がおわって家に帰っても、誰か待っている人もいない。壁に貼ってある、少年時代の自分の写真。その瞳の輝きと、今の自分の澱んだ目つきを鏡で見比べる。こんなはずじゃなかったのに…
ボクシングジムの会長ミッキーは、ロッキーのロッカーを、勝手に売り出し中の黒人ボクサーに譲ってしまう。怒るロッキーに対し、「さっさと引退しろ」と言い捨てる。
ペットショップの店員エイドリアンにロッキーは惹かれている。だがしかし、彼女はジョークを聞こうともせず、分厚いメガネをかけた視線をロッキーにあわせようともしない。
ここまでのロッキーは、タクシードライバーのトラヴィスと同じだ。誰一人として、自分に優しくしてくれる人などいない。日々の生活は最悪だ。心の中を孤独と絶望が覆い尽くしている。タクシードライバーと少し違うのは、ロッキーの周りの人間全てが、彼と同じような絶望に包まれていること、そしてそれに対し諦観しているところだ。トラヴィスはベッツィーにフラれ、少女のアイリスに説教しても疎ましがられただけだった。ロッキーもまた、トラヴィスと同じだ。近所に住むマリーは、夜中までDQN連中と遊びほうける12歳の少女だ。ロッキーは彼女に「あんな屑どもと付き合って夜遅くまで遊んでりゃ、お前は売女みたいになっちまうぞ!」と説教するが、鬱陶しがられて「死ねよクソッタレ!」とまで言われる始末。クソッタレがクソガキに説教するか、と自虐的に呟くロッキー。誰もがそうだ。自分をBumだと見限っている。
酒場で見たテレビには、世界へヴィ級チャンピオンのアポロが映っていた。「アメリカ建国200年記念に、この俺がフィラデルフィアでタイトルマッチをするぜ」調子の良いその苦笑にバーテンは「近頃のボクサーは口ばっかりだ」と毒づく。しかしロッキーはそれに対し「アポロはピエロなんかじゃねえ。全力を出し切ってやってきたからチャンピオンなんだ。お前は人生で一度でも全力を出し切ったことがあるのか?」と反論する。しかし、これはロッキー自身にも向けられた言葉だ。

ここで、ロッキーとトラヴィスの大きな分岐点が発生する。孤独の解消だ。

感謝祭の日、ロッキーはエイドリアンと念願の初デートをする。閉館したスケート場で整備係に10ドルつかませて10分だけリンクを借りることとなった。そこでエイドリアンに、なぜボクサーになったのかを問われる。「親父が言ってたんだ。『お前は頭が悪いんだから体で稼げ』って」エイドリアンはそれに応えて初めて笑う。「なにがおかしい?」「私も『あんたは体がダメだから、頭を使いなさい』って、ママに言われてたの」
ロッキーの家に行く途中で二人は会話を交わす。「ボクサーになりたがる人の気持ちがわからないわ」「ボクサーやるやつなんかバカだよ。ボクサーやるやつの気持ちを解るにはバカになるしかねえよ。行き着く先はゴミ溜めのクズさ」「ううん、あなたはクズじゃないわ」
初めて入る一人暮らしの男性の部屋に戸惑うエイドリアン。「兄に電話しなきゃ」「もう帰るわ」と言う。警戒心からでもあるかもしれない。しかしそれ以上に、彼女もまた自分に自信が持てない人間なのだ。だからロッキーから逃げようとする。そんなエイドリアンのメガネをとるロッキー。「綺麗な瞳だ」「からかわないで」ロッキーがそっと彼女の頬に口づけする。兄にバカで根暗のブスと言われ続けて来た自分が受け入れられたことによって、エイドリアンの感情があふれ出す。ロッキーも同じだ。初めて自分のことをBumじゃないと言ってくれた人。自分のキスを拒まないでいてくれた人。二人は互いに赦しあえる存在を手に入れたのだ。
アポロの本来の対戦相手が負傷し、ロッキーが代役で選ばれる。「イタリアの種馬」というあだ名が気に入られたらしい。ちなみに、イタリア語で種馬はStalloneと言う。
しかしロッキーは今までのロッキーじゃない。愛する人を得て生まれ変わった。朝4時に起きて生卵を五つ一気飲みし、ランニングを始める。
ミッキーはロッキーにマネージャーをさせてくれと頼みに来る。「今頃きやがって、十年かかってやっとだぞ!そんなに俺の家に来たくなかったかよ!十年だ!今まで鼻にも引っ掛けねえで、いつもバカにしてやがってた癖に、それがでかい試合が申し込まれた途端に手のひら返したようにペコペコしやがって!俺の力になりたい?十年も俺を見捨ててきたくせにふざけるな!」ロッキーは己の怒りをミッキーにぶちまける。ミッキーも肩を落として帰ってゆく。
しかし、ロッキーはミッキーを許してしまう。彼にマネージャーをやってもらうことにしたのだ。
エイドリアンの兄のポーリーは、肉屋で働く飲んだくれのどうしようもない男だ。エイドリアンを悲しませてばかりの彼にもロッキーは怒るが、彼のこともまたロッキーは許してしまう。試合できるガウンに肉屋の広告を入れさせてくれと頼むポーリーに、「あんたが儲かるなら、好きなようにしてくれ」と承諾する。
フィラデルフィアの町の人々の心を繋いでゆくロッキー。しかし、試合前日の夜に、彼はエイドリアンに対し、こう呟く。「アポロと俺は格が違う。俺はあいつには勝てないだろうよ。だが、俺はもともとクズみたいな男だった。俺には何にもなかった。そう考えれば、例え頭砕かれても、平気だ。勝ち負けは関係ない。最後まで…15ラウンドのゴングがなってもリングの上に立っていられたら、俺はそれで満足だよ。その時俺は、人生で初めて、自分がBumじゃないって証明できるんだ

試合は、予想外の展開となった。チャンピオンのアポロが油断したその時、ロッキーがまさかのダウンを奪ったのだ。フィラデルフィアの人々は熱狂の渦に包まれる。しかしやはりチャンピオンは強い。チャンピオンの猛攻に防戦一方のロッキー。まぶたは大きく腫れ上がり、今まで折れたことがないのが自慢の鼻も曲がっている。それでもロッキーは決して倒れない。14ラウンド。ついにダウンさせられるロッキー。セコンドのミッキーのもう良い十分だ寝てろという叫びも響かないのか、ロッキーはそれでも立ち上がるのだ。15ラウンド目にして、ロッキーとアポロは最後の力を振り絞り、激しく打ち合う。そしてゴングが鳴って試合終了。勝敗は判決に持ち込まれた。
「リマッチはナシだ、俺はやらんぞ」「ああ、まったくだ」
立っていることもままならないロッキーとアポロは、抱き合ってお互いを支えあう。
熱狂する観客にもみくちゃにされながら、リングへと走って向かうエイドリアン。
判定は2対1で辛くもアポロの勝利。だが、ロッキーにはもう、勝敗などどうでも良い。そんなものは聞こえない。ロッキーは、エイドリアンの名を叫ぶばかりだ。インタビュアーがロッキーに色々と質問しても、「結果なんてのは専門家が判定するもんだ、俺はただ全力でやっただけだ!」とこたえるだけだ。
エイドリアン、エイドリアン。戦いを終えて、クズじゃない自分を証明したロッキーが求めるのは、彼女の姿、彼女の声、彼女の抱擁だけだ。
「エイドリアーン!!」
「ロッキー!!」
リングに駆け上がったエイドリアンは、ロッキーの胸に飛び込む。
「愛してるわ!」



ロッキーは建国200年の感謝祭で公開され、アメリカだけで1億2000万ドルを稼ぎ出し、アカデミー賞では9部門の候補に選ばれ、スタローンは主演男優賞と脚本賞にノミネートされた。なぜこれほどまでに、アメリカの人々はロッキーに熱狂したのだろうか。
監督のアヴィルドセン曰く、「『ロッキー』は本当はおとぎ話なんだ。だからこそ徹底的にリアルに描いて観客に信じ込ませなければならなかった」という。
主人公とヒロインは美男美女からは程遠く、彼らの周りに居るのは資本主義の落ちこぼればかりで、人間関係は冷え切って、風景は殺伐としている。ロッキーはこうしたニューシネマに独特の残酷なリアリズムを踏まえながら、その裏にはアメリカンドリームを復活させるためのトリックも仕込まれていたのだ。そんな人々にも、栄光が与えられうるんだ、と。
また、ロッキーに仕組まれた人種の緊張もある。ロッキーの敵は黒人だ。試合をテレビで観てる酒場の客は全員白人だし、フィラデルフィアの路上をうろつく浮浪者やアル中、失業者や労働者たちも皆白人だ。一方アポロを始めとする黒人は、皆上等のスーツを着て、収支自信に満ち溢れた笑みを浮かべている。一番最初にロッキーの居場所の一つであるロッカーを奪ったのも黒人のボクサーだ。
ロッキーとアカデミー作品賞を争ったのはタクシードライバーだ。こちらはシナリオの段階では、孤独で貧しい白人のタクシー運転手が、白人少女を囲う黒人のヒモを倒して英雄になる話だった。ここでみても、タクシードライバーとロッキーは、同じ話のネガとポジだったのだ。
しかし、トラヴィスとロッキーの一番大きな違いは、孤独を癒してくれる何者かが居るかどうかだ。トラヴィスには、英雄となる前にも後にも、誰も居なかった。ロッキーは、チャンスを手にいれる前から、ただのBumでしかない頃から、エイドリアンという赦しあえる誰かがいた。もしエイドリアンがチャンスを手に入れた後のロッキーに近づくような女だったら、ロッキーはミッキーを追い返した時のように彼女を追い払っていたはずだ。「俺がゴロツキのボクサーでしかなかったときには見向きもしなかったくせに、俺がちょっと有名になったら言い寄ってくるのか!バカにするな!」と。
しかし、彼女の愛でロッキーは全力でアポロに挑もうとしたのだし、ポーリーやミッキーたち他人を許すことが出来たのだし、自分がBumでないと証明できたのだ。これこそが、ロッキーという作品のなかで最もおとぎ話的な部分だ。
ラヴィスに無くてロッキーにあったもの。それはエイドリアンの存在に他ならない。そしてエイドリアンもチャンプに挑戦するチャンスも与えられないのが現実だ。
私は映画としてはタクシードライバーのほうが好きだ。トラヴィスは賞賛を手に入れることが出来ても、最後の最後まで孤独のままだ。もし在り得るとしたらこちらだけだろう。だがロッキーも、おとぎ話だからこその良さがある。
今回書いてみて思ったのは、本田透氏が電波男萌える男で唱えている「萌えによる家族の復権」というのは、最終的にはロッキーのようなことなのだろう、ということである。つまり、エイドリアン(喪女)に萌えると、その家族や、あるいは周りの他人に対しても、寛容な気持ちになれるようになるのだ。ロッキーでいうと、エイドリアンという「自分をBumと思わない、赦してくれる存在」がいることで自信が持てるようになり、優しさが生まれ、ミッキーやポーリーを許せる気持ちになるのだ。…まあ、萌える男の該当箇所をまだ読んでいないので、全然違うのかもしれないが…
今回強く思ったのは、鬼畜ルートが一つきりではないように、萌えルートもまた一つきりではないのだ。バファロー’66のギャロが妄想のキャラによって自分が救われて終了する「萌えルート:ギャロ編」であるなら、ロッキーは喪女と萌えあうことによって寛容の輪が広がってゆく「萌えルート:ロッキー編」であるのだ。ただ萌えあうだけだと自尊心が回復しきれない人は、戦って己がBumじゃないという証を手に入れる、と。

っていうか本田さんが萌えルートロッキー編に乗っかった人だよなあ。まあ普通はタクシードライバールートかギャロルートのどっちかですかな('A`)

ロッキーが階段を上るシーンの感動は永遠だ。どんなスペクタクルもSFXもCGも、あの階段には及ばない。あの瞬間のスタローン=ロッキーはスターでもヒーローでもない。貯金も仕事も名声もなく、現実に打ちのめされた三十男、僕らと同じ普通の人間だ。スタローンの雄叫びは音楽にかき消されて聞こえないが、言いたいことはわかる。
「この映画はコケるかも知れない。オレは笑いものになるかもしれない。かまうもんか。オレはやるだけやったんだ!」
町山智浩 「映画の見方がわかる本」P222)