民俗学と萌えのつながり

福島瑞穂の誕生日を明日に控えましたが、みなさま如何お過ごしでしょうか。
私は福島瑞穂の誕生日を祝うという趣味は御座いませんので夜中まで仕事なのですが、世間の方々におかれましてはクリがどうこうといいながらお誕生パーティーを盛大に行われる模様で、これは察するに、昨今の社民党の低迷振りからは想像もつかないほどに福島瑞穂もっとセックスする!というおぞましい情念が列島に渦巻いている模様ですね。だってクリ云々と福島瑞穂の誕生日でパーティーといったらそれ以外の結論はどう頑張ってもだせないじゃあないですか。街で見かけるあの赤い帽子はそのまんま「自分はアカです」という主張なのでしょう。アカと社民党に線引きは必要ないとおもってるぜ俺。それで良いのか?しらね。('A`)
前述の通り、私は朝から夜まで仕事通しですので福島瑞穂の誕生日を祝うことはできませんが、仕事の合間にイケメン呪殺の儀式くらいなら。('A`)
…ハッ、タイトルと全然関係ない話をしてたら全然本題に繋がんなくなっちゃったよ!いつものことだけど!
おっかしいなあ、さっきまで脳内でなんとか繋げる算段がついていたのですが。
ちゅうことで今回は付け焼き刃感全開で久しぶりのインチキ理論ですがどうぞ。

大塚英志の『「伝統」とは何か』を読んだ。読んだといってもまだ第一章と終章しか読んでいないという中途半端ぶりなのだが、パラパラみたところ、この部分こそが本書の肝だと思うので、読み途中ではあるものの、ここから話を始めてみたい。

<伝統>とは何か (ちくま新書)

<伝統>とは何か (ちくま新書)

ここで述べられている「伝統」とは、電波男(というか岸田秀)言うところの「共同幻想」というやつで、近世末期から近代にかけて人々のアイデンティティの受容体として「作られた」ものである、というのが根幹となる主張だ。
まず、日本という国家において伝統を作り出していった民俗学という学問の創始者たちのエピソードなんかを辿っていく。柳田國男折口信夫小泉八雲。彼らには「自分の血統の捏造」という奇妙な共通点があった。
小泉八雲アイルランド人とギリシャ人のハーフだが、自分の先祖はジプシーであると嘯いた。柳田國男は幼い頃、母の愛情が不足していると感じた際に、架空の叔母を創造して、そこに自分の「血統」を見出していたという。架空の叔母…?それはすなわち、二次元の住人だということだ。まあ、それはまだおいておこう。折口信夫はどうか。彼は、自分が父と母の本当の子供ではないという意識に苛まれていた。事実はわからない。だが彼が自分を両親の本当の子供では無いと考えていたことは確かだ。血統に対する不信ため、彼は妻帯せずに弟子を養子としてもらうにとどめた。余談だが、折口は同性愛者だ。彼の性癖もまた、血統に対する不信から来るものだったのだろうか。ともかく、自分の血統を消去したいという感情は、やはり虚構の血統をつくりだす。彼は里子に出されたという体験を捏造し、「里子に出された先での母」という存在に拠り所を見出す。

そこで興味深いのは、「妣の国」のごとき「異郷」を「現実」の上に接木された「空想」として捉えていることだ。

<われゝが現に知って居る姿の、日本中何れの国も、万国地図に載つたどの島々も皆異国・異郷ではないのである。ただ、まるゝの夢語りの国土は、勿論の事であるが、現実の国であつても、空想の緯糸織り交ぜてある場合には、異国・異郷のなで、喚んでさし支へがないのである。>
(「妣の国へ・常世へ」、『折口信夫全集』二巻所収)

ここには明らかに、折口が想像力をもって「現実」を書き換えうるものとして意識していることが見て取れる。そして、このような空想の出自、空想の血統を見出していくことがハーン、柳田、折口を貫く、彼らを民俗学者たらしめていた想像力の質であったことがわかる。彼らは父母との関係の不安を、民俗学を創出することで贖おうとしている。想像力によって自分たちが帰属する血統を作り出そうとしているのである。
大塚英志 『「伝統」とは何か』)

思えば民俗学とは奇妙な学問だ。学者が「村の誰それから聞きました」といっては居るものの、紙に記す段階で、あるいはそれ以前の対話の段階で様々な脚色が施されているかもしれない。そしてそれを検証することが困難であるという性質をもつ。だが民俗学とは、それでいいのかもしれない。真実を探求する学問というよりかは、精神分析医と患者の関係のように、話者と聞き手の対話の中に一つの物語を構築することが民俗学の本質かもしれない。それが本当の記憶かどうかが問題なのではなく、どう語られたか、なぜそう語られたかが重要なのだ。問題は、人々が良い幻想を作り出せたかどうかなのだ。そしてそのことは、民俗学創始者のなかにも顕著にあらわれているのだ。


しかしなぜ彼らは「血統」に固執したのか。それは近代という時代が、国家のアイデンティティ確立のために「家制度」や「血統幻想」をでっち上げたためであった。しかし、当時の実相としては養子や貰い子に戸籍の書き換えなど、血統に対する軽視は日常茶飯事であった。そのため明治の若者は自分の血統に苦しまねばならなかったのだ。「俺はこの家の本当の息子じゃない!」と。

近代において「孤児」としての民俗学者が描いたのは、いわばファミリーロマンスとしての「伝統」像だった、といえる。
大塚英志 『「伝統」とは何か』)

彼らは「個」の帰属するアイデンティティの受容体として、共同幻想に「日本という国家の伝統」を選んだ。そして人々との対話や文献などから「伝統」を作り出したのだ。それは母を求める心から発している。自分は母に愛されていないという不安、自分は母の本当の子では無いという不安から、自我を安定させる、自分の存在を全肯定する母としての「伝統」が捏造されたのだ。
そしてそれは国民国家として、万世一系天皇を頂点に戴く「日本」という存在を作り出すにいたる。人々は「御国」というアイデンティティの受容体を最高価値とし、戦争に突入していった。柳田國男らが現在批判されている理由の一つだ。そのことが政治的に云々という話はどうでもいい。問題は、戦争を経た後、その共同幻想が破壊されてしまったことにある。
柳田國男は、戦後崩壊した共同幻想を再構築しようと試みた。「日本」の代替物として、人々を支配する幻想たる「世間」を提案した。しかし、戦前において柳田は「世間」を「独立した個の複合体」として捉えようとしていたと大塚は指摘する。
そして教育において「世間」を学ばせる、共同幻想として形作るにあたり、柳田は「おっかさん」を持ち出したという。国家という共同幻想が失われた先に柳田が退行したのは、「母」であった。

以上を簡潔にまとめてみよう。
柳田國男民俗学者は自我を安定させてくれる「母」を求めていた。しかしアイデンティティの保証人として、現実の家族や母親では満たされなかった。そのため架空の血統を創造した。その性質は「日本という国家の伝統」を作り出すに到った。そこからアイデンティティの保証人は「日本」という存在に代行されたが、戦争で負けて崩壊した。仕方ないのでアイデンティティを保障するものに「世間」を設定した。

大塚の論は、ここから「独立した個の複合体としての公共」をめざす民俗学に注目すべきだとなるが、ここではひとまず置いとく。
私が注目したのは、これは電波男の構図と似ているということだ。本田透も現実の家族には満たされなかった。喪男も、現実の女性では満たされなかった。そのため架空の家族を創造した。そしてそこから現実をリライトしようと試みている。
ただ、その行為が柳田たちと異なるとすれば、それは民俗学の行動は三次元世界の共同幻想に力点を置き、上から下への戦略で政治的に働きかけて行われたものであるのに対し、本田透の萌えは二次元世界の個人幻想に力点をおいた、後ろ向きに下から上へと押し上げる戦略なのだ。そういう意味では、民俗学の失敗点を上手く消化している。

なんだか文章がグダグダになってきてしまったが、要するに民俗学創始者たちは現代の萌えと本質的に深く繋がっているのだ。考えてみれば、民俗学が取り上げてきたものは巫女だの妖怪だの、全くもって萌えと親和性の高いものばかりである。
最後に「萌え萌えジャパン」で柳田國男の評論「妹の力」について述べているところから引用して終わりにしたい。これを読めば、「ああ、民俗学って萌なんだ!」と魂で理解してくれるものと思う。

この評論は、変わらないものの代表が故郷で会あったが、その故郷ですらもどんどん変わっていくとの記述から始まり、「近年は家族というものがとても大切にされるようになった、特に兄妹の親しみが深くなった、兄が成人するにつれて、妹と仲良くすることは世間一般の風潮になった」と指摘する。
(中略)

故に兄の寂寞を妹が慰めるのも、言はば此民族の一続きの大なる力の、一つの新しい波に過ぎないのかも知れない。

(中略)

此の如き兄妹間の新現象を以って、単純なるエロチシズムの心理に帰せんとし、一方には又情趣の悲観家なる者が之と合体して、往々にして之に拠って(婦人の)解放の幣をさへ唱へんとするやくに見える。しかし其の観察は明瞭に誤って居る。仮に兄弟の交情の底の動機に、若い者らしい又人間らしい熱情が潜んで居たとしても、世には是ほど無害なる作用が果たして他にも有るだらうか。

(中略)
兄の寂寞を癒す妹がいる人はいい。だが男兄弟しかいない孤独な男子はどうすればいいのだろうか。しかし現代では美少女をモチーフにしたキャラクターグッズが多数ある。孤独な夜などはへいちゃらなのだ。
堀田純司 「萌え萌えジャパン」、引用文内引用は柳田國男 「妹の力」)