電波男読解その3:電波男の自由と倫理

少し前回の電波男読解から間が空いてしまいましたが、電波男の読解を再開しようと思います。
…ただ、割と「今更そんなこと言われんでも、そんくらいわかっとるわい」という部分も多いので、もう一回電波男読みなおそうと思ってるけど本棚探すのも面倒くさいから要点だけ読みたい、という方に良いかもしれません…('A`)


さて前回、電波男は倫理よりも自由を重視したものだといった。では、電波男の言う自由とはなんだろうか。
自分が思うに、それは「支配幻想からの自由」と、「自己選択した幻想への自由」の二つだ。
まず支配幻想からの自由とは、自分の属する社会集団のみせる幻想から脱却することだ。電波男の文脈でもって、この部分をざっとおさらいしよう。
まず前提として、「幻想」とは「何が価値があるものなのかを規定するもの」だ。しろはたなどでたまにマトリックスとか表現されるものだ。現在の社会において支配的な幻想、すなわち恋愛資本主義は、恋愛とそれに伴った消費をこそ至上の価値とし、人々に恋愛(と、恋愛のための消費)をするように圧力をかける。その圧力は、どのような恋愛が元も望ましいかという恋愛の理想形態を提示する。ひとびとはその理想にどれだけ近づくことが出来るか、すなわち恋愛のためにどれだけ金などの資源をつぎ込めるか、そしてその結果はどうであるかで格付けされる。人々はその圧力に馴致され、恋愛をするために金を遣う、ただのマシーンとなってしまった。つまり、恋愛資本主義下の人間は、例え自分自身の理性から行動したのだと考えていても、実際は他者の作り出した幻想にそった動きしか出来ないので、その人たちには、人間の心であるとか、内面であるといったものは存在しなくなってしまったのだ。心が存在しない以上、人々はうわべの良さで人を判断するようになる。
恋愛資本主義のみせる「理想の恋愛」においては、イケメン(美女)こそが最上位のものであり、次いで金持ちや権力者が良しとされる。しかしその幻想内においては、理想形態から最も遠いもの、自然と低く格付けされる存在が発生する。それがオタクやキモメンたち…すなわち喪男だ。恋愛資本主義は、彼らに対し、モテるようになるための消費を煽る。例えば脱オタだとか、DQNになれといったような圧力だ。それに従わなかったり、従っていてもキモメンから脱却して美女を手に入れたりするような結果を出さない限り、恋愛資本主義は彼らを差別し弾圧するのだ。
しかし、そのような圧力に従うことが価値を持っているなどというのは、所詮幻想に過ぎない。電通などの見せるマヤカシに過ぎないのだ。そのことに気づいた電波男は、恋愛資本主義からドロップアウトすることを勧める。「別にもてなくてもいいじゃないか」と。
人々を支配する幻想から目覚めること。その人が何者の強制や規定も受けない状態へ。電波男が最初に説いた自由は、恋愛資本主義から自由になることだ。

恋愛は唯一絶対の価値を持つわけではない。恋愛もまた、人間が自分の自我を安定させるために発明した数多くの物語の一つであり、人間に「こうこうこういうルールで行動すれば、あなたは幸せになれますよ」という行動規範を示すひとつのプログラムに過ぎないのだ。
(「電波男」P49)

次に「自己選択した幻想への自由」について説明しよう。
電波男は現在支配している幻想から人々を脱却させたが、人は幻想なくしては生きられない。せっかく支配幻想から脱却しても、宙ぶらりの状態では無気力な状態、自我の不安定化などに陥ってしまう。岸田秀の考え方を踏襲する本田透はこのことを踏まえたうえで、別の幻想にコミットすることを促す。それは誰に強制されるものではない、自分が自分の趣向で持って選び取る幻想だ。そこではどんな幻想を抱いてもいい。そしてそのコミットした幻想を追及することを、電波男では良しとしている。個々人は、自分の好きな幻想を選び、それを目指して生きてゆく自由を持つと説いているのだ。
ここは電波男の文章の中でも特に大事な、そしてオタクたちが共感した部分ではなかろうか。

オタクは、恋愛資本主義システムの構造がコードの体系として見えてしまっている。見えるが故に、システム内部で洗脳されながら生きることが出来ない。見えてしまうが故に、「どうせ恋愛が幻想なら、自分自身でその幻想を作り上げたほうが楽しい」と結論しているのだ。そこには想像力を駆使した想像の楽しさがある。だが負け犬の人生には、消費しかない。彼女たちは自立してるかのように錯覚させられているが、実は主体性のかけらもないのだ。
(「電波男」P111)

電波男では、その方向性として萌えオタクとなることが最も好ましいものであるとしているが、決してそれ以外の幻想を断固として否定するわけではないし、オタク内部においても、自由なあり方を認めている。ただ、やはりオタク的なあり方を奨励してはいるのだが。

とりあえず、人間には、二次元と三次元、オタク世界と恋愛資本主義、好きなほうを自分の意思で選択する自由がある。この本は、「この世には三次元の恋愛資本主義社会だけでなく、二次元のオタク世界というものも存在する」という真実を人々に訴えて目を覚まさせようとしているものであって、すべての人間に脱三次元を迫っているわけではない。負け犬が一生三次元にこだわり続けるのも、それはそれで自由。一生ホスト通い、良いでしょう。イケメンは良いですよねイケメンは。
だが、アーアーきこえなーい、と恋愛資本主義からの脱洗脳を拒み続けて一生踊らされ続けるのは実に哀れ、としか言いようがないのである。
負け犬の皆さん、目を覚ましてくださーい!
(「電波男」P377)

イケメンオタクの場合、三次元では恋愛資本主義ルールのまま暮らし、二次元で萌えルール生活、という二足のわらじも、それはそれで構わないだろう。岡田斗司男先生のように、三次元では「自由恋愛主義市場」つまり恋愛資本主義で勝ち組となり、二次元も制覇、という恋愛二冠王もアリかもしれない。
(「電波男」P349)

また、以下は萌える大甲子園の2003年10月のものだ。ちょっと古いので現在の本田透の考え方とはまた違うかもしれないが、一応参考にはなるので引用しておく。

 かつて「シートン動物記」を漫画化した白戸三平先生は、カムイにこう語らせました。
 こうやって危険を避けて生きていくのが、おれの人生なのか・・・
 しかしそれでは、あの動物と同じ・・・
 人間として生まれたからには・・・
 何か、意味があるはず・・・
 ないんだ・・・
 そんな意味なんか、人生に、何もないんだよっ・・・(;´Д`)
 しかし、無いとわかっていても、いや無いからこそ、無駄に人生の意味を探しまわり、力尽きて倒れて行く、
それが人間の性・・・(;´Д`)
 その意味を、他人から与えてもらおう、と言い出した瞬間に、人は、下僕にされてしまう・・・
 宗教、会社、学校、ジャイアン、左門豊作子。
 そんな奴らの世界に引き込まれ、家来にされ、自分自身を奪われるのだ。
 奴らに土下座し、尻の穴を晒しだした瞬間に、人間として生きていくために最低限必要なプライドが失われてしまう。
 そして、それがイヤで逃げ出しても、どこまでも、追われ続けるしかない・・・
 どこにいっても、そこで出会った人間の家来にされるしかない人生。
 なぜ?
 お前に、自分というものが無いからだ!!(;´Д`)
 自分自身の意思、
 自分自身の理想、
 自分自身の欲望、
 自分自身への愛、
 何も無いっ・・・(;´Д`)
 つまり、なにものでもない・・・(;´Д`)
 だから誰かの意思、他人の欲望、他人の妄想を注入されないと生きていけなくなってるのだ。
 あたかもマトリックスに取り込まれた人間と同じように(;´Д`)
 道は二つに一つ。
 最後のプライドを捨てて、他人の人生に取り込まれてのび太として人生を終えるか、
それとも、最後のプライドのために、戦うかだ(;´Д`) 
自分自身の意思、自分自身の理想、自分自身の人生の意味は、自分で勝ち取るしかないのだ(;´Д`)


さて、自由であることをよしとする電波男だが、かといってなにもかも許すわけではない。女を次から次にヤリ捨てるようなDQNは許さないし、イケメンにかまけて子供を不幸にするようなDQN女は殺すだろう。脳内で。その本人が選んだ幻想を突き進むことを許すなら、こういった幻想を選ぶ人だって居るはずだ。いや、「人間の性、悪なり」と考える本田透においては、自由気ままにやろうとすれば、殆どの人間はこのような行動に出るものだと用意に想像つくはずだ。かつて酒鬼薔薇聖斗などはバモイドオキ神とかいう自作の神様などをあがめていたらしい。まさに自己の選択した幻想のままに突っ走ったわけだが*1電波男はそれを許容しないだろう。その理由を考えたときに、読書感想日記や喪男道で言われるような電波男の倫理がでてくるのだ。
すなわち、こないだのエントリを繰り返すが、他人を自分の道具と見なすことを悪だと、電波男は考えている。電波男は、自分の欲望を満たすためだけに他人を利用し踏みつけるような真似を非倫理的だと考えている。つまり電波男では、自由な行動を行うにしても、その行動に倫理が裏打ちされるべきだと考えているのだ。また逆に言えば、倫理に裏打ちされるなら、どんな行動をしても自由だといっているのだ。これは「葉隠」と考え方は似ている。

「武士道は死狂ひなり。一人の殺害を数十人をして仕かぬるもの。」と直茂公仰せられ候。本気にては大業はならず。気違ひになりて死狂いするまでなり。又武士道に於いて分別できれば、はや後るるなり。忠も考も入らず、武士道に於いては死狂ひなり。この内に忠孝はおのづから籠るべし。
(山本常朝「葉隠岩波文庫

三島由紀夫が「葉隠入門」でわかりやすくこの文章をまとめている。

もし、理知が盲目の行動の中におのずから備わるならば、また、もし理性があたかも自然の本能のように、盲目な行動のうちにおのずから原動力として働くならば、それこそは人間の行動のもっとも理想的な姿であろう。
三島由紀夫葉隠入門」新潮文庫

一々倫理を気にして生きるのではなく、ただやりたい様にやる中に、他人を自分の利益のために利用しないという倫理が備わること。これが電波男の求めるところではないだろうか。ただ、上述のごとく、そうは言っても人間なかなか「やりたいようにやってさらに倫理が備わっている」なんてことにはならない。どうしても他人を踏みつけてしまうことになるだろう。そこで電波男は、非倫理的な行動をしてしまいそうなら、二次元で消化しろ!と叫んだ。それは葉隠の時代には考えられなかった画期的なことだ。

三次元…アナログの世界には、一度壊してしまうと、もう回復できないという欠点がある。それなのに、DQNは三次元で暴れて、取り返しのつかない行為に及ぶわけです。この点、妄想力を鍛えて「アイ・ノウ・萌え!」と宣言し、「萌えマスター」になったオタクは、二次元世界では人に言えないあんなことやこんなことをしているかもしれないが、二次元はデジタルだからリセットも修復も自由自在。で、二次元で妄想力を発揮しまくれるから、そのかわり三次元では羊のように大人しく生きていられるというわけだ。
(「電波男」P151)

オタクは二次元で非倫理的な行為を吐き出すこと、つまり妄想することで、三次元世界の人々を踏みにじるような真似をさける。それでいて、妄想そのものがオタクにとっては一番やりたいことなのだから、自由な行動ともまたぶつからない。
葉隠」ではあまりに理想主義的であった部分が、数世紀の時を経て実現されたのだ。実は電波男は「オタク葉隠」でもあったのだ。差し詰め「喪隠」とでもいおうか。なんか凄い縁起悪い題名だが。

このように、電波男はその人の自由を求める。誰かの幻想に支配されることを拒むし、かといって自分の幻想が他人を支配し苦しめるようなことは、倫理の観点から許しがたい。この二つの問題を解決する方法として、オタク化は最も効果的な方法なのだ。

たまに「恋愛資本主義もオタクも、恋愛至上主義っつー同じ穴の狢やん?だからどっちもえーやん?」的な言説を見かけるが、それは電波男の自由と倫理に対する誤読だ。恋愛資本主義化の負け犬たちは、支配幻想に踊らされているだけだ。その幻想を一旦捨てて、それでも恋愛資本主義を選んでいるというならまだ話しもわかるが、負け犬たちは支配幻想の奴隷で、人間の内面というものを持ち得ない。そのため、他人が別の幻想を持っていることを理解できないし、それをどうにか否定しようとして三次元に居るオタクを攻撃する。それは自由と倫理の両方の欠如が招くものだ。自由がなくては内面は生まれないし、内面がなければ倫理はうまれない。そのため、恋愛資本主義のような支配幻想に踊らされる人は、自己の設定した幻想に生きるオタクとは大きく異なるのだ。

また、この電波男読解で言いたかったことのひとつに、最近ネット上のいくつかのところにおいては、この自由という観点が抜けていることによる危うさのようなものが感じられる。それは具体的には倫理を過剰に重視する傾向にみられる。上述のとおり、倫理は大事だ。とても大事なことだ。だがしかし、自由であることはそれ以上に大事なのだ。倫理は所詮その人の外殻に過ぎない。倫理がその人の内面を規定するのではなく、自由な行動がその人の内面を生み出すのだから、倫理でもって他者のイメージを固定するのは危険だ。最近の本田透が恐れている部分はそこにあるのではないかと思う。電波大戦から、滝本竜彦との対談を引用しよう。

滝本 つまり、次回作で正反対のことを書ける軽やかさが必要ではないかと。いつでも  「『電波男』なんて嘘だよ」と言えるようにしておかないと。

本田 僕が今、そんなこと言ったらインターネットで吊るし上げられますよ( TДT)

滝本 人の噂も七十五日です

本田 勇気付けられますね!(`・ω・´)シャキーンでも、僕、最近ちょっと怖くなってきていて。『電波男』が一人歩きして、どんどん僕の意図してなかった方向へむかっているような…

滝本 今本田さんが彼女作ったら一番面白いですよね。(笑)。早く作るべきですよ。それは彼女がどうとかいうよりも、イメージが固定化して自由に動けなくなるのが一番怖いわけですから。
(中略)
滝本 本田さんが彼女を作ったくらいで騒ぐファンなんて死んでしまえばいいんですよ

本田 ひ、酷い( TДT)

滝本 だって、冷静に考えれば、『電波男』の価値と、本田さんが彼女を作ることには何の関係もないじゃないですか?そういうことがわからないファンは、メディアに洗脳されているんですよ。そういう洗脳は早く解いたほうがいいから、教育的配慮として早く彼女を作るべきですよ。だってこれから先、すごく好きな人が出来たら困るじゃないですか?

電波男の良いところは、ある程度の倫理のうえでなら、その人の好き勝手を許すユルさにあると思う。少なくとも、私は本田透の考え方のユルい部分が好きだ。電波男がああいった文体だったのは、あんまりガチガチに考えないようにすることも意図してのことだったのではなかろうか。

最後に、先ほど引用した萌える大甲子園の、同日の下の部分を引用することにする。

 まあ、とにかく、マトリックスとマトリロを観て自分にもわかりましたにょ。


・ダメ人間の人生はジャイアンや左門豊作子に支配されている(;´Д`)

・迂闊に目覚めれば、もっといやな「何の意味もない人生」が待っている(;´Д`)

・自分の人生を手に入れるには、エージェントスミスとカンフーで戦うしかない(;´Д`)

・人生はすべて無意味だが、マトリックスに支配されないためには、
 次の三つの行動だけが必要だ。
 ラブ、セックス、バイオレンス。
 これら3つは結局、すべて、戦いなのであって、
 戦わなければ、いつまでも逃げ続けるか、あるいは支配されるしかない。
 逆にいえば、
 人生に真に必要なものは、ラブ、セックス、バイオレンス、この3つだけだ。
 それ以外はすべて、不必要だ。

・あまり周囲に目を覚ませと言い回るとモーフィアス=電波なのでほどほどに。

だからこの本のタイトルは電波男なのですねー。ふっきれて目を覚ませーとか言いまくってたら、本田透電波男に変身したと。

*1:ただまあ、彼はこの神様にやれーとか命令されたわけではないらしいですが、どうなんでしょうね。