オタクがヤオイを好きな理由

ただひとつたしかであるのは私たちが求めているのは、「他の人間」ということ――それはすなわちその「他の人間」に「自分」が保証されるため、他の人間によって自分自身が確認されるためであるということである。もちろん私たちは他の人間そのものを求めているわけではないと言うことだ。私たちは自分自身を求めているのである。そしてその自分自身をこの世に存在させてくれる存在として他の人間を必要としているのだ。
(「コミュニケーション不全症候群」 中島梓

ということでようやっと「なんでオタクがやおいに手え出してきとるんじゃい」という話をしようと思いますよ。インチキ臭さ全開でありますが、お暇な人はちょいと見てってくだせえ('A`)


さて、上の引用にあるように、オタクが何かに萌えたり、腐女子やおいを好んだり、更には人が恋人なり家族なりの他人を求めて止まないというのは、言ってしまえばこの「自分」に対する保証を求めるところにそ根幹となる原因がある。
しかしこの「『自分』の保証」とは何であろうか?一体何がどうなればそれが保証されたことになるのか?そもそもなんでそんなものが必要なのか?ちょっと長くなるが、おさらいしたい。
といっても、本題に入る前の前提として自分がちょいとまとめておきたいだけなので、「んなもんイラネ」という人はしばらく読み飛ばしていただきたい。一応それでも読める…はず。
さて、「自分」という表現では漠然としているなら、自我とかアイデンティティとかいう言葉で言い換えよう。この自我の保証ということを、かつては神という存在で、今の多くの人は金や恋愛などにおいて、そしてオタクこそは「萌え」で行っている。ではなぜ、それらのものがこの私の自我を保証してくれるものになるのか?それは「それに愛されることで自分は救われる」という幻想を構築し、その愛を得ることが出来た(と私が感じた)なら、自我の安定性・恒久性などが確立される(ように思う)のだ。そうすることで自分の存在は揺るぎのない、絶対な、全能の存在であるように知覚される。突き詰めれば、人が神や恋愛などを追い求めるのは、この唯我独尊の全能感という幻想を求めているということなのだ。
自我の保証とは、全能感の復活である。

人間の赤ちゃんは、筋肉運動器官も感覚器官も未発達で、まったく無能である。自我と対象、現実と非現実(空想)の区別はもちろんない。これが、個人の置かれた最初の状況である。個人の要求はすべて、何らかの遅延なく、また何らかの努力を要せずにたちどころに満足される。したがって、個人は、客観的には無能であるが、主観的には全能である。
(「ものぐさ精神分析」 岸田秀

全能感とは、言い換えれば自分自身に対する愛情、信仰である。こうした全能感というものは、そもそも赤子の頃には有していたものだったという。しかし、成長するに従い、自分にはどうしよもないものが現れてくる。それは元々存在していたものではあったが、しかしそうした現実というものによって全能の幻想はもろくも崩れ去り、不完全な自己をなんとか生存させるために必要な現実我が養われていく。現実我とは、夢も希望も情け容赦も全くない外世界に適応するために形成される自我だ。そこでは、無能で無力で存在する価値の欠片もない自分というものにどうしても直面させられる。しかし、一度全能感に浸った人間は、そのような現実が到底受け入れがたい。自己は全能で不可欠で絶対なものでなくてはいけないということが、本能のレベルで刻まれているのだ。そうすると、どうなるか。本能のレベルで全能たろうとするものの、無能であるために不可能である。それならば、出来ないことなど無いほどに有能になればいい。有能な存在へと成長すればいいのだ。成長とは、かつての自分、全能たる己という幻想を取り戻すための戦いなのである。
しかし、有能であろうとしても、それでも結局は限界というものがある。結局何がしかの理由により自己の存在を絶対的に感じるということは破壊される。それならば、全能の私という存在を、他の何かに肩代わりさせて、その全能の何者かに私に全能感を与えてもらえば良い。こんな思考が人間の内に生まれた。
分かりやすく言い換えると、「ああ、オラはダメな奴ズラ!('A`) でも、もしも素晴らしい人がオラを愛してくれるとしたら、それはつまりオラも素晴らしい人間だと認められたということになるズラ!そうなればオラはダメ人間ではなくなるズラ!('∀`) 」ということである。
最初は自分に一番近く、自分を養ってくれる親に全能性、無謬性をになってもらうことにした。しかし、どうやら親も私の全てを肯定してくれる、全能感を与えてくれるわけではないらしい。私の不満を満たしてくれない。ということで生まれたのが、神という存在だ。そして、神でもダメになったので、名誉や金、恋人へ、家族へ、また、2次元のキャラクターへ。
それら自己の全能感の代理人の変遷については、電波男萌える男などで述べられた通りである。


「恋人でいいんだけど、見ず知らずの人が俺を愛してくれるかなあ…幼馴染とかなら俺のこと良く分かってるから…でもこのキモイ顔見りゃ逃げてくだろうし…ロリっこなんかどうかな。でも歳はどうあれ女は女、キモピザを好きになるわけないし…じゃあ盲目の少女や知能障害の子なんかどうだろう。でも所詮他人だしなあ。あ、そうだ、妹とか姉とか義母ならどうだ。家族なら良いかも知れないぞ。でもこの東京砂漠においては家族だってあてにならんしなあ。んじゃロボットなら良いんでないだろか。しかし、女の子型のロボットではやはりイケメンを好むだろう。と言っても『火の鳥』みたいにメカメカしいロボってのもなあ…いっそのこと動物ならどうだろう。人間じゃないけど…」


このようにして、人は愛を与えてくれる他者の存在を消去法的に進化させてきた。だがそれらは結局のところ、「自分の全能感は満たされているか?」言い換えると「俺は愛されているか?」ということが肝要なので、全能感の代理人である他者を改良するだけでなく、自分自身の変化というものが実験されるように編み出された。「俺がイケメンになったらいいんじゃねーの!?」「俺が可愛いショタっ子になれば良いんじゃねーの!?」「俺が女の子になったら良いんじゃねーの!?」という、「自分を変化させる」流れも、一方では存在した。
さて、そろそろ本題だが、男のオタクがやおい本を好きになってきたということは、この一連の流れの最先端に当たるものなのだ。
色々と試行錯誤した結果、「やっぱり女は俺を愛してくれそうもないし、俺はキモイ男なんだよなあ…」という、「そりゃそうだ」みたいな結論にたどりついたオタクたちは、懲りずにやおいなら…やおいならなんとかしてくれる…」という結論に、ボリジョイサーカスなみにアクロバティックな思考を経てたどり着いたのだ。
今でこそそれなりに需要のある*1ショタが攻略対象となるエロゲーも、現在進行形で段階的な進化を経てきている。まず「恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐHしちゃうの」でヒロインに「女装している男の子」が登場をし、話題を掻っ攫っていった。確かそれ以前のエロゲーでは、男の子を攻略してしまうという作品はあまり見かけなかったと思う。というか自分の知ってる範囲では無かったと思う。だがこの時はまだ、「女の子になりたい男の子」という、男性的というよりかは女性的な存在だったのが、その後は、「別に女の子の格好してなくてもいいじゃないか」「ワイは男の桜ちゃんが好きなんや!」と開き直って「ナイショのよりみち」にまでたどり着いた。まあ、割合この辺りでも先頭集団だろう。
だが、ここで注意すべきなのは、全能感の代理人が、今まではロボであれ動物であれ、どのような形でも「女」という他者であったのが、「男」に変化してきている、自分の存在に近づいていることなのだ。

そしてこのショタ(女性的ではあるけれど男の子)萌えをさらに自分の存在の近くに持ってこようとすると、人によっては炎多留へ、そして人によっては、ヤオイへと到達するのだ。炎多留へ行く人*2は、相手のキャラクタを自分に引き寄せようとしている人だろう。で、やおいに進む人は、相手を自分の存在にひきよせるというのもそうなのだが、「自分を変化させる」のほうの流れも組み込んできている人だ。最初はカヲル君×シンジ君で、次にレオリオ×クラピカ、サンジ×ゾロ、となり、徐々に徐々に――キモイ自分がキモイ自分を愛するという構造へ近づきつつある。悟空×ピッコロ、Mr.ポポ×ピッコロ、神様×ピッコロ、クルル×ギロロ
よって、女性のやおいが自己の存在を、女性性を放棄したイノセントな存在として受けの少年に仮託させ、それを父親という保護者の代理である攻めの少年に愛されるという構図を持っているのに対し*3、男性…とくに喪男オタクがやおいを求めるようになるというのは、自分が自分自身を愛するようになるまでの道程というものに過ぎず、進化が進んでいけば行く行くはキモオタ×キモオタのヤオイ本が出てくるということになり、方向性としては「キモオタの俺が一番セクシー」というナルシシズムへ向いている。
萌えるということの本質が本田透の言うようにレゾンデートルの確保にあるのなら、萌える主体と対象は、実は両方とも自分自身なのである。
これはつまり、元々が全能感の復活による自己救済が目的の萌えの進化の系譜は、必然的に最終到達地点が自分で自分を全能だと思い込む、言い換えると「自分で自分のことを愛する」という所に行き着くということに他ならない。
そう考えると、ふたなりや「俺萌え」を提唱する本田透も、「やおいが好きだ」という三平×2も、思考実験として採用している方法が違うだけで、じつは同じ到達点へ向かって行っていることになる。
本田透グラムロックを好きだったというのは示唆的である。グラムも結局のところ、スパンコールなどでギンギラに着飾り、後一歩で女装になりかねないような中性的な格好をしつつも「火星からやってきました宇宙グモです。殺されました」とかいってるダメダメな自分に陶酔する音楽だからだ。理屈でそうしていたわけではないだろうが、深層意識的に求めるところがあったのだろう。

オラが十代後半の頃、グラムロックにハマってたのは、女が嫌いだったからだっぴ!!(・ω・ )

 もう恐ろしくて嫌で嫌でどうしようもないので、グラムロッカーになって、女を遠ざけようとしたんだっぴ!(・ω・ )

 もちろん「恐ろしい」とか「嫌だ」とかいっても、モテて困ってたわけじゃなく、全然モテない上に嫌な目にだけは会わされるので心底困っていたわけなのですが。

 グラムの世界は男のナルシスな自己完結世界だから女は立ち入れないと思ったっぴ!

 ところがそれが大間違い。そういうのが好きな電波サブカル女が寄ってきて、かえって悲惨な目にあったっぴ。

 その点、オタクはよかった。オタクには女がよりつかねえ!('A`)

 

 すなわち……オタクこそ真のグラム!(`・ω・´)
「萌える大甲子園・2005年1月20日」 本田透

ただ、自己愛やナルシシズムだと言っても、それが悪いことだというのではない。ただのナルシシズムは、「皆はなぜこの俺を崇拝しねえ!」というアミバさまやジャギさまのような形になったりするが、こうした進化を経て手に入れた自己愛は、他者がどうであれ自分は自分で素晴らしい、だから他人を憎んだり呪ったりする必要はないのだという気持ちを生み、心が揺るぎなくなることによって、今よりも他人を受け入れる余裕が生まれることに繋がってくるのではないかと思うからだ。

問題は、「みんなからかわいがられたい」というのが「自己愛」かどうか、ということだ。自己愛というのは文字通りに言うなら自己を愛することである。自己をほんとうに愛することのできる人間なんらば、「みんなからかわいがられる」ことを病的に求める必要などなのである。
自己愛であるのでない。彼女たちにとっては逆に、「みんなからかわいがられる」良い子、「だれからも好かれる」子であることだけが、彼女の生き延びるための方法であったというのに過ぎない。彼女はまったく自分を愛してなどいないのである。自分で自分を愛することが出来ないからこそ愛してくれる人を求めなくてはならない。
むしろ摂食障害の基本テーマは、いかにしたら彼女たちが真の意味での自己愛をもつことができるようになるか、ということなのだ。
(「コミュニケーション不全症候群」 中島梓

*1:…あるよね!?

*2:スイマセン、K(仮称)さんは一応炎多留を(ネタでも)やったよみたいな人っつうこで紹介しただけで、K(仮称)さんがガチンコのホモだという話ではないのですハイ('A`)

*3:といってもこの考えももう古いということなので、その辺は「オタク女子研究」を待ちましょう。