タクシードライバーと喪男たち

「僕は人から好かれない男だ。自分の内側に引きこもって愚にもつかない思いを巡らせている。自意識過剰という病気だ。相手の目をまっすぐに見られない。無根拠に自尊心が高くて、疑り深く嫉妬深い。心のそこには憎悪と復讐の念が渦巻いている」
ドストエフスキー「地下生活者の手記」)

なんか諸星大二郎の「生命の木」が映画化するらしいですね。「生命の木」だけなのか、その他の妖怪ハンターシリーズの話しもくっつけての映画化なのか。いや、あるじゃないですか、短編小説とか一話完結の漫画を映画化したりしたやつで、同じ作者の他の作品の部分部分をくっつけて時間水増しして作ってたりする映画とか。具体例が思い浮かばないんですけど。「ぱらいそさいくだ!みんないっしょにぱらいそさいくだ!」「ぜずさま!ぐろうりやのぜずさま!」のシーンがどうなるのやら…
というのもこの間Zガンダム見に行ったときにそれの予告編がやっていたのを思い出しまして…最近テレビを見ることが少なくなったので、今映画で何やってるとか、そういう世の流行事などにさっぱりついて行けてなかったりします。ネットでもそんなん調べたりしませんし。
いかん、ネットひきこもりだ…('A`)
引きこもりといえば、文学の世界で最も偉大な引きこもりはドストエフスキーの「地下生活者の手記」ですね。この作品の主人公は、自意識過剰で引きこもってしまうのですが…映画界でこれに匹敵する自意識過剰な人間は、マーティン・スコセッシ監督「タクシードライバー」の主人公、トラヴィス・ビックルでしょう。

タクシードライバーは前々から大好きな映画でした。当時のアメリカについての知識などがあまり無かったもので、所々分からないシーンなどがあったりもしましたが。溜まりに溜まった鬱憤を、大統領を殺すのでなくアイリスを救うためにぶっ放す。何よりも、そのカタルシスがたまらなかったですね。初代グランドセフトオートではトラヴィスばっかり使って遊んでました。
あとはしろはた電波男で書かれているような見方*1に「ああー、なるほど」とか感じていたりしたものですが、最近町山智浩先生の「映画の見方がわかる本」を読んで、タクシードライバーという映画の背後にあったもの、製作者たちや彼らにまつわる話などを知り、タクシードライバーという映画に対する愛着をさらに深めました。この本にはタクシードライバーに携わった喪男たちの哀しみがこれでもかと詰まっている、本当に良い本ですよ。

タクシードライバーアラバマ州知事のジョージ・ウォーレスを銃撃した犯人のアーサー・ブレマーの日記が元ネタなのですね。これを読んで激しいシンパシーを感じた喪男脚本家のシュレイダーはたったの十日で脚本をあげてしまいます。それを受け取った喪男監督スコセッシが、あのような映像へと昇華させたのです。
タクシードライバーは基本的に主人公トラヴィスの視点で話しが進んでいきます。そこには、ひたすらに孤独な男の姿が描かれます。愛する恋人も、友人も居ない。どこに誰といても一人ぼっちな彼の眼には、この世界はバイタにヒモ、オカマにヤク中や売人ばかりの腐りきったものと映っているのです。
客がタクシーの後部座席で売春婦とセックスを始める。トラヴィスは、ただそれをルームミラー越しに眺めるだけ。深夜にポップコーンを食べながらひたすらポルノ映画を眺め続けるトラヴィス。彼にとって、他人を交わることというのは――性的な意味も、精神的な意味も含めて――全て自分とは関係ない場所の話なのです。彼の目の前に現れてゆく他人は、みな何かしらの温もりに浸ることが出来ています。しかし、彼だけがその温もりから隔絶されている。得られない温もりに対する渇望が、たとえ偽物であったり仮初であるにしても、それを得ている者に対して憎しみを呼び起こす。
ラヴィスが鬼畜ルートに突入するきっかけの一つとして、ある夜に乗せた男が居ます。彼は浮気した妻に、今からマグナム銃をぶち込んでやるんだ、と狂ったように吼え続けます。
その男こそスコセッシ監督本人です。急遽代役をやることになったスコセッシ監督。彼は体が弱く内向的な性格の男で、「このヘナチョコ野郎!」と家族からも虐げられて育ちました。女癖が悪い人物ではありましたが、同時に女性というものを酷く憎んでいたのです。近づいてきた女に対し、「本当は僕みたいな男は好きじゃないんだろ?僕が有名人だから寝ただけなんだろ?」と問い詰めては辟易とさせていました。彼もまた、ブレマーやシュレイダーやトラヴィスと、そして多くの喪男と同じく、劣等感と自意識過剰ゆえに、愛情を渇望しながらも、手にしたものを欺瞞だ…真実ではないと否定せざるを得なかったのです。
ベッツィー、アイリス…トラヴィスが出会う女性たちはみな彼を嘲笑うだけで、相手にもしません。孤独は日に日に強く育っていく。そして孤独や憎しみ、劣等感は自我を肥大化させます。トラヴィスは、自分が「神に選ばれた孤独な男」であるとし、大統領候補のバランタインを銃撃しようとします。

貧困や不公平感、孤独や疎外感に苦しむものは、歴史を変える戦いに参加することで、惨めな人生の一発逆転を図るのだ。これは右翼・左翼を問わず、全てのテロリストの本当の動機である。
町山智浩「映画の見方がわかる本」P182)

しかしトラヴィスは警備が厳重なため、作戦を実行に移す前に中止せざるをえませんでした。そこで彼は、アイリスのいる売春宿を襲撃することにします。
ここで、タクシードライバーのもう一つの側面、人種の緊張というものが見えてきます。映画が製作された70年代前半はブラックパワーの時代でした。リズム感、陽気さ、ファッションセンス、白人男性と比べても巨大なペニス…セックスアピール旺盛な黒人は、差別の対象であると同時に嫉妬の対象でもあったのです。立場としては、今の韓国人みたいなもんですかね。売春宿でアイリスのヒモをやっているスポーツという男は、当初の予定では黒人でした。これまでのシーンで積み重なった黒人への不満もまた、弾倉の中に込められてゆきます。途中で人種の違う俳優にスポーツ役が移ってしまうのですが。
そしてその結末は…ぜひDVDでご覧ください。

公開されたタクシードライバーは、トラヴィスの写し身のような孤独な男たちの長蛇の列を、劇場前に作った。その中の一人、ジョン・ヒンクリーは十五日間、タクシードライバーを見るために劇場に通い、アイリス役のジョディ・フォスターの虜になってしまいます。
そして1981年3月30日。レーガン大統領に対しヒンクリーは炸裂弾6発を発射、レーガンは軽傷で巻き添えを食ったブレディ報道官は下半身不随となりました。ヒンクリーは「ジョディのために撃ったんだ!」と主張しました。

喪男には、過剰な自意識から人を遠ざけて、喪男になってしまう人も多いと思います。少なくとも僕自身は倫理的に立派にやっていたら喪男になった、というわけでは無いと思います。自分がそれほど道徳的な人物だとも思えませんし。なんにしても、そういった人々が少ないわけではないということを、タクシードライバーは訴えています。トラヴィスという男が背負った、自意識過剰と孤独の哀しみは、今も消えないまま喪男の心を苛み続けます。

ラヴィスは時代遅れのカウボーイだ。60年代終わりの公民権運動で少数民族の地位が大きく向上すると、黒人やインディアンを土人扱いする冒険活劇や西部劇は作られなくなった。公民権運動と共に女性の地位向上運動、いわゆるウーマン・リブも起こった。女性はベッツィのように職場に進出しピル(経口避妊薬)の解禁で主体的にセックスを楽しむようになった。アイリスは古臭い女性観を押しつけるトラヴィスにウンザリして「ウーマン・リブって知ってる?」と聞くが、トラヴィスには何のことかわからない。また、60年代に反戦運動をしていた学生たちは、ヒッピーを卒業してヤッピー(リッチなホワイト・カラー)に成長しつつあった。ベッツィーのボーイフレンドのトムはヤッピーの典型、しかもユダヤ系である。
黒人、インディアン、ユダヤ系、女性、インテリ学生…皆偉くなって楽しそうだ。取り残されたのはオレだけだ!トラヴィスウェスタンブーツが象徴するのは白人ブルー・カラーの屈辱とノスタルジアだ。彼らは西部劇を愛し、カントリー&ウェスタンを聴く。マッチョな白人男がヒーローだった時代を懐かしんで。
町山智浩「映画の見方がわかる本」P186)

「この世でいちばんの敵はなにか!それは愛である!」
「人々は愛を信じ、愛に頼って生きるうちに敗北する!」
(オロカメン  ジョージ秋山デロリンマン」)

*1:ラヴィス喪男、それの鬼畜ルートでバッファロー’66のギャロは萌えルートだった